episode3.灼熱のサーラ
「そこで止まりな」
荷車まで二十歩ほどのところで、低い声が飛んできた。
叫んだわけではない。
それなのに、風と軋みの中でもよく通った。
声の主は、小柄な女だった。
年は四十代の終わりか、もう少し上かもしれない。強い陽射しに焼けた頬には細かな皺があり、砂色の髪は頭へ巻いた布の中へすべて収めている。色の違う布を何度も継ぎ当てた上着に、幅広の帯。腰には短い刃物と、使い込まれた工具が並んでいた。
背はそれほど高くない。
少なくとも、セヴァンと並べば半分くらいに見える。
けれど、彼女が一言発しただけで、荷車の周りにいた全員の動きが揃った。
隊商の頭だ。
「通りすがり。修理はできる」
オレは両手を見える位置へ上げたまま答えた。
女の目が、オレの顔を通り過ぎる。
先に見たのは、左の靴底だった。
次に工具袋。手袋の擦れ。セヴァンの肩へ固定された大きな荷。最後に、二人の間の距離を測るように視線が動いた。
無駄を省いた、旅のエキスパートみたいな目だった。
誰がどれだけ怯えているかより、誰が何をできるかを見ている。
顔を眺められるより、靴と工具袋を見られるほうが、オレにはずっと心地よかった。
「何ができる」
「旧式の荷車なら、壊れた場所を見ればたいてい分かる。金属の補修、管の継ぎ直し、補助動力の切り離し。完全に直せるかは、部品を見ないと約束できない」
「正直だね」
「できないことをできるって言って、途中で壊したら報酬が減るから」
「報酬は欲しいのか」
「当たり前だろ」
女の口元が、ごく短く動いた。
笑ったというより、答えを確かめたように見えた。
「私はサーラ。この隊の頭だ。触る前に、何をするか言え」
「分かった。オレはリュカ。こっちはセヴァン」
「荷物持ちか」
「違う。荷物も持つけど」
セヴァンは訂正した。
サーラが初めて、彼の顔をまっすぐ見る。
「力仕事は?」
「できる」
「ふっ、見れば分かるか。頼りにさせてもらう」
短いやり取りだった。
余計なことを訊かない。
オレは、こういう大人をかなり好きだった。
もちろん、好きな種類の人間だからといって、何もかも信用するほど馬鹿ではない。荷物の中身も、黒い箱のことも、こちらから話す気はなかった。
けれど、仕事の話なら早そうだ。
「水が漏れてる。先にそっちを見る」
「金具が折れて、管を挟んだ」
「水容器の栓は?」
「閉めた。だが管の途中に残ったぶんが落ちてる」
「容器の位置は動かした?」
「動かしてない」
「正解だね」
返事をしながら、オレは荷車の下へ膝をついた。
白砂には、すでに手のひら二枚分ほどの濡れた色が広がっている。
荒野で見る水の染みは、血より胸に悪い。
血なら、傷口を押さえれば止まることがある。
水は、落ちた分だけ確実に失われる。砂へ吸われれば、もう飲めない。
腹ばいになり、荷台の下へ上半身を入れる。
熱のこもった金属と、獣の脂を混ぜた潤滑剤の匂いが鼻へつく。頭上には太い車軸が通り、その上へ荷台の骨組みが渡されていた。
壊れているのは車輪そのものではない。
荷台の重さを後部車軸へ渡す受け金具が、真ん中から折れている。片側の支えを失った荷台が沈み、水容器から伸びる太い管を車輪枠との間へ挟んでいた。
管の表面には細い裂け目がある。荷車が風で揺れるたび、そこから水が一筋ずつ落ちた。
壊れた金具は、止まっているかぎり逃げない。
けれど、水は待ってくれない。
「セヴァン。工具袋の外側。樹脂布と細い金属帯」
「これ?」
車体の外から必要なものが差し入れられる。
見なくても触れればすぐわかる。
「合ってる。乾いた布も。サーラ、水管の入口より水位を下げたい。容器は傾けず、上から別の器へ移せる?」
「できる。二人、上へ。車体を揺らすな」
指示が飛び、隊員が動く。
誰も余計な問いを挟まない。
オレは裂け目を乾いた布で押さえ、その上へ樹脂布を強く巻いた。さらに金属帯を二周させ、締め具を一段ずつ絞る。
水の筋が細くなる。
もう一段。
最後の一滴が砂へ落ち、それきり止まった。
「仮止め。荷台を上げて管を抜くまで、誰も車体に乗らないで」
身体を引き抜くと、サーラがすぐそばに立っていた。
「報酬は作業のあとで決める」
「水を止めたぶんは、先に数えてもらうからね」
「それでいい」
即答される。
本当に、話が早い。
荷車を持ち上げる前に、壊れた側の上にある重い荷だけを下ろした。すべてを軽くすればよいわけではない。反対側の支えへ急に重さが移れば、残った金具まで折れる。
オレが位置を示すと、サーラの隊は迷わず動いた。
「セヴァンはこっち」
荷台の下へ入り、太い横梁を指す。
セヴァンが縦枠へ手を掛けようとしたので、すぐに止めた。
「そこじゃない。一本前」
「違う?」
「そこを上げると左だけ浮く。荷台を平らに戻すつもりで、横梁へ両手を広げて」
セヴァンは素直に身体を入れ直した。
「まず重さを受けるだけ。まだ上げない」
「ああ」
「オレが止めろって言ったら止めて」
「止める」
「本当に?」
「今回は信用していい」
「毎回そう言うな、それ」
荷台の下で、セヴァンの肩から背へ力が集まる。
沈んでいた車体が低く軋み、ゆっくり持ち上がった。
「そこ。止めて」
ぴたりと動きが止まる。
「水管、抜いて。今」
年嵩の女が潰れた管を枠の間から引き抜く。オレは仮支柱を差し込み、荷台の重さが移ったことを確認した。
「もういい。力抜いて」
セヴァンが両手を下ろす。
隊商の若い男が、信じられないものを見るように彼を見た。
「本当に一人で上げた……」
「だから言っただろ」
なぜかオレが得意になった。
セヴァンは自分の掌を見ているだけだった。
「痛い?」
「痛くない」
「腕、見せて」
「平気だ」
「平気かどうかは、見てから決めるの」
手首と肩を動かさせる。赤みはあるが、傷も引っ掛かりもない。
「うん。平気そう」
「平気だと言った」
「おまえの自己申告は基準が変なんだよ」
背後でサーラが小さく鼻を鳴らした。
「ずいぶん大事に扱う」
「こいつが怪我したら、誰が荷物持つんだよ」
「荷物持ちではない」
「あのね……。今は黙ってて」
挟まれた部分を切り、予備の管へ継ぎ替える。折れた金具には、昨日の遺跡から持ち帰った銀灰色の板を添えることにした。
売れば、靴底一足ぶんくらいにはなったかもしれない。
濾過材もきっと買えた。
うまく値がつけば、卵だって一個ではなく二個買えたかもしれない。
かなり惜しい。
……本当に惜しい。
「それは売るものではなかったか」
セヴァンが言う。
「売るつもりだったよ」
「使うのか」
「他にちょうどいいのがない」
荷車には、まだ水も穀物も、どこかの集落から預かった薬草も積まれている。ここで走れなくなれば、五人と二頭の砂駄獣が、水を分け合って歩かなければならない。
金属板は、持っていればいつか水へ換えられる。
けれど今、目の前の水と人を守れるなら、そちらへ使うほうが早い。
「水を失って、人が歩けなくなったら、金属だけ残しても仕方ないだろ」
言ってから、我ながら少し格好をつけすぎた気がした。
「……ただし、材料代はきっちりもらうからね」
「ああ」
セヴァンの返事には、笑いを堪えている気配があった。
「何だよ」
「リュカらしいと思った」
「どっちが?」
「両方」
「分かったような顔するな」
「分かっているから」
また、そういうことを平然と言う。
金属板を折れた金具の外側へ添え、元の部品と車体枠をまとめて挟む。二本のボルトと太い金属帯で留め、横揺れを逃がすため斜めに針金を渡した。
完全に直ったわけではない。
平らな道をゆっくり進み、次の修理場まで持たせるための補強だ。
支柱を外し、後輪の補助動力を最低出力へ入れる。
覆いの中で古い機械が低く唸った。
その音だけで、胸が弾む。
左後輪が白砂を押しながら、四分の一だけ回った。
補強板はずれない。
水管からも漏れない。
「もう四分の一」
再び車輪が動く。
今度も大丈夫だった。
「平らな道をゆっくりなら、南の井戸場までは保つ」
周囲に張りつめていた空気がほどけた。
若い男が息を吐き、車体係が補強板へ指を当てる。年嵩の女は砂駄獣のほうへ歩き出した。
そのときだった。
二頭の砂駄獣が、同時に長い首を上げた。
片方が鼻孔をきゅっと閉じ、喉の奥で低く唸る。
セヴァンの顔から、さっきまでのわずかな緩みが消えた。
「人が来る」
サーラも即座に振り返る。
「どっちだ」
「西。九人」
「今度は断言するの?」
「音を隠している」
それを聞いた瞬間、サーラの目が変わった。
「荷を戻すな。水は内側へ。獣を中央に寄せろ!」
短い声で命令が飛ぶ。
隊員たちは、修理が終わった喜びを顔から消し、すぐに動いた。
白髪まじりの女は水容器の前へ防砂板を立てる。若い男は砂駄獣の手綱をまとめ、二頭を荷車の陰へ寄せた。車体係は長い工具棒を握り、片腕を傷めた見張り役は、荷台から小さな弓を引き出す。
サーラは荷台の下から、布に巻かれた棒を抜いた。
布をほどくと、幅広の穂先を持つ短槍が現れた。
柄はサーラの背丈より長い。けれど、普通の槍よりは短く、荷車の周りでも取り回しが利きそうだった。穂先は刃こぼれを直した跡だらけで、それでも鋭く研がれている。
サーラが槍を構えたとき、小柄な身体が急に大きく見えた。
「逃げないの?」
「修理したばかりの荷車で、積荷も戻してない。走れば左後ろがまた折れる」
サーラは西の砂丘から目を離さない。
「それに、背を向ければ砂駄獣の脚を狙われる」
なるほど。
あの大きな荷車は、さっきまで羨ましい財産にしか見えなかった。
けれど、持っているものが多ければ、置いて逃げられないものも増える。
砂丘の縁へ、最初の人影が現れた。
続いて二人、三人。
最後には九人が横へ広がり、白い斜面の上からこちらを見下ろした。




