実験開始
翌日の放課後。
屋外訓練場へ着いたアレクシスは、中央に置かれた椅子と机を見て眉をひそめた。
机の上には砂時計と記録用紙、それに魔力量を測定するための小型測定器が並べられていた。どれも学院の実習で使われる一般的な器具だったが、ルカが正規の手続きを踏んで借りたとは思えない。
「その測定器はどこから持ち出した」
「借りただけだ」
「許可は」
「返せば問題ない」
「問題しかないように聞こえるが」
「気になるなら、お前が正規の手続きで借りてこい。第二席なら俺より簡単だろ」
アレクシスは露骨に顔をしかめた。
「次からは私が用意する。貴様の窃盗に加担したと疑われるのは不愉快だ」
ルカは意に介さず、測定器をアレクシスへ向けた。
「まずは訓練前の状態を記録する。昨日の勝負で魔力を使い切っているから、今日は基準値の測定だけだ」
「もう回復している」
「完全にか?」
「そのつもりだ」
「なら測れば分かる」
アレクシスが測定器へ手を置く。装置に刻まれた術式が淡く光り、針がゆっくりと動いた。
ルカは表示された数値を紙へ書き込む。
「最大魔力量の九割二分」
「十分に回復している」
「一割近く不足しているだろ」
「戦闘に支障が出る量ではない」
「今日やるのは戦闘じゃない。僅かな差を比べる実験だ」
ルカは記録用紙から顔を上げた。
「今日は中止。明日まで魔法を使うな」
「断る。授業がある」
「授業以外では使うな。それと、今夜は早く寝ろ」
「貴様は私の母親か」
「体調が違えば結果を比べられない。酒も禁止だ」
「学生が飲むわけがないだろう」
「貴族は分からないからな」
「貴様は貴族をなんだと思っているんだ」
「無駄に金を持っている平民」
アレクシスのこめかみに青筋が浮かんだ。
実験初日は、訓練を行うことなく終わった。
翌日、アレクシスは再び訓練場を訪れた。測定の結果、魔力は完全に回復していた。
「ようやく始められるな」
「待たせたのは貴様だ」
「お前の回復が遅いせいだろ」
「喧嘩を売っているのか」
「事実を言っているだけだ」
ルカは砂時計を机の端へ置いた。
「今日から行うのは、低出力魔法の維持訓練だ。昨日説明した通り、魔力を一気に使うことは禁止する」
「火球を維持し続ければいいのだろう」
「ただ維持するだけじゃない。魔力が尽きる直前で止める」
アレクシスの眉が動いた。
「限界まで使わせるのではないのか」
「毎日魔力を空にしていたら、回復に時間がかかる。マギベインへの負担も大きい。お前に必要なのは消耗することじゃない。長時間、魔力を生成し続ける状態を作ることだ」
「第三の器官を働かせ続けるということか」
「存在するならな」
ルカは記録用紙へ視線を落とした。
「最大魔力の八割を消費した時点で止める。そこから一時間休んで、どこまで回復したかを測る。これを毎日繰り返す」
「八割では余力が残りすぎる」
「お前は何でも限界までやらないと気が済まないのか」
「中途半端な訓練に意味はない」
「その考えで成長が止まったんだろ」
アレクシスはルカを睨みつけたが、反論はできなかった。
「分かった。貴様の方法に従う。ただし、無意味だと判断した時点で打ち切る」
「三週間は俺の指示に従う約束だ」
「結果が出る限りはな」
「始める前から条件を変えるな」
アレクシスは右手を上げた。
「炎よ」
掌の上に小さな火球が灯る。三日前の賭けで使ったものの倍ほどの大きさである。
「これでいいか」
「ああ。大きさを変えるな。無駄に出力を上げるなよ」
「何度も言うな」
火球を維持するだけの訓練が始まった。
初日は二時間ほどで終了した。最大魔力の八割を消費した時点で、ルカが火球を消させた。その一時間後、回復した魔力は消費量の一割にも満たなかった。
二日目も、大きな差はなかった。
三日目も同じだった。
アレクシスは毎日決められた時間に訓練場へ現れ、小さな火球を維持し続けた。ルカは開始前の魔力量、維持時間、終了時の残量、一時間後の回復量を記録する。睡眠時間や食事、授業で使用した術式まで確認されることに、アレクシスはそのたび不満を口にした。
それでも指示には従った。
一週間が経過した。
「変化がないな」
測定器の表示を見て、アレクシスが言った。
「回復量は初日とほとんど同じだ。維持時間も伸びていない」
「そうだな」
「随分と落ち着いているではないか」
「一週間で結果が出るとは思っていない」
「ならば最初からそう言え」
「言ったら、お前は始めなかっただろ」
アレクシスは目を細めた。
「私を騙したのか」
「結果が出る時期が分からないとは言った。勝手に期待したのはお前だ」
「よく分かった。今すぐ貴様を燃やせば、少なくとも一つは明確な結果が出る」
「余計な魔力を使うな。記録に影響する」
アレクシスの指先に灯った炎が、苛立たしげに消えた。
十日目。
変化はない。
十二日目。
魔力の回復量が僅かに増えたが、測定誤差の範囲を出なかった。
十五日目。
維持時間が数分伸びた。しかし、ルカはそれを成果とは認めなかった。
「制御に慣れただけかもしれない」
「結果が出ても認めないつもりか」
「逆だ。都合のいい数字だけを成果にしたくない」
「貴様は自分の理論を証明したいのではなかったのか」
「証明したいから疑っているんだ」
ルカは記録用紙を見たまま答えた。
「間違った理由で数字が変わったなら、それは証明じゃない。祖父の仮説を正しいことにしたいわけじゃない。正しいかどうかを知りたいんだ」
アレクシスは黙った。
ルカは祖父の理論を学会へ認めさせるために動いている。だが、祖父が正しかったという結論に固執しているわけではない。
自分ならどうするだろうか。
信じてきたものを否定する結果が出た時、それを受け入れられるのか。
「何を見ている」
「別に」
「なら火球を見ろ。大きさが変わっている」
アレクシスは慌てて魔力を調整した。
三週間目に入っても、明確な成果は現れなかった。
測定値には日ごとの揺れがある。回復量が増えた翌日に減ることもあり、維持時間も伸びたり縮んだりを繰り返した。訓練前後で測定したマギコアの大きさにも、変化は見られない。
期限まで、残り三日。
「やはり間違っていたのではないか」
アレクシスが火球を消しながら言った。
最大魔力の八割を消費したところだった。ルカは砂時計を返し、終了時刻を記録する。
「まだ三日ある」
「三日で何が変わる」
「分からない」
「またそれか」
アレクシスは右手を握りしめた。
「私は三週間、貴様の指示に従った。実戦訓練の時間を減らし、このような初等科じみた魔法を毎日維持した。だが、回復速度はほとんど変わっていない」
「焦るな」
「焦るなだと?」
声に怒気が混じる。
「私には時間がない。ルーンハルトも訓練を続けている。私がこんなことをしている間にも、あいつはさらに先へ進んでいる」
「だから元の訓練に戻るのか」
「そうだ。少なくとも技術は伸びる」
「そして、また同じように負ける」
アレクシスがルカの胸倉を掴んだ。
「貴様に何が分かる」
「分かるさ。三週間前のお前と同じことを言っているからな」
「黙れ」
「努力が足りない。もっと魔力を使えばいい。もっと負荷をかければいい。そうやって何度も同じ訓練を繰り返して、結局マギコアの成長は止まった」
「まだ間違いと決まったわけではない」
「それは俺の実験も同じだ」
二人の視線がぶつかる。
先に手を離したのはアレクシスだった。
「あと三日だ」
「ああ」
「変化がなければ終わりにする」
その日の一時間後、ルカは回復量を測定した。数値は前日より僅かに高かった。だが、測定誤差として処理できる程度だった。
二十日目。
大きな変化はなかった。
二十一日目。
三週間の期限を迎えた。
訓練を始める前に、ルカはアレクシスのマギコアを測定した。表示された数値を確認し、過去の記録と照合する。
「変化は」
「ない」
ルカの返答に、アレクシスは目を閉じた。
「そうか」
意外なほど静かな声だった。
「約束通り、これで終わりだ。貴様の仮説は間違っていた」
「まだ訓練後の測定が残っている」
「結果は同じだ」
「それを決めるのは測ってからだ」
最後の訓練が始まった。
いつもと同じ小さな火球を維持する。特別なことは何もない。魔力の消費量も、流す速度も、これまでと同じだった。
二時間後、最大魔力の八割を消費したところで、ルカが終了を告げた。
「一時間休め」
「必要ない」
「測定が終わるまでが実験だ」
アレクシスは不満を口にすることもなく、訓練場の端に腰を下ろした。
一時間後。
測定器へ手を置く。淡い光がアレクシスの腕から全身へ広がり、やがてマギコアの位置へ集まった。
針が動く。
ルカは記録用紙へ目を落とし、前日の数値と比較した。
「回復量は」
アレクシスが尋ねる。
「昨日より増えている」
「どれほどだ」
「僅かだ。誤差の可能性もある」
「なら結果は同じだな」
「待て」
ルカは測定器の表示を凝視していた。
「何だ」
「もう一度、最初から測る」
二度目の測定。
針は、先ほどと同じ位置を示した。
ルカの表情から軽さが消える。測定器を確認し、予備の器具へ取り替えた。
「今度は何を測っている」
「黙っていろ」
三度目の測定が終わる。
ルカは記録用紙の束を取り出し、アレクシスの入学時からの数値を並べた。何度も見比べた後、現在の結果へ線を引く。
「ルカ」
「……増えている」
「誤差の範囲と言ったのは貴様だろう」
「違う」
ルカは顔を上げた。
「マギコアだ」
アレクシスは動きを止めた。
「何を言っている」
「三週間前より大きくなっている。僅かだが、測定誤差の範囲を超えている」
「あり得ない」
アレクシスは反射的に否定した。
「私のマギコアは、ここ半年ほとんど成長していない」
「だから何度も測った」
「測定器の故障ではないのか」
「二台とも同じ結果だ」
アレクシスは測定器へ視線を落とした。
ほんの僅かな差だった。戦闘で実感できるほどの魔力量ではない。昨日までと比べて、急に強くなったわけでもない。
それでも、止まっていたはずの数値が動いた。
「……本当に、成長しているのか」
「ああ」
ルカの声にも、普段の軽さはなかった。
「まだ一度だけだ。訓練の効果か、別の要因かは分からない。これだけで第三の器官が存在する証明にもならない」
ルカは記録用紙を握りしめた。
「だが、止まっていたマギコアが、再び成長を始めた可能性がある」
アレクシスは自分の胸元へ手を当てた。
何も感じない。
身体に変化はなく、魔力が増えた実感もない。
だが、数値は変わっている。
これまでの定説では、成長を終えたマギコアが再び大きくなることはない。訓練で技術を伸ばすことはできても、器そのものは変えられない。
そう教えられてきた。
「三週間は終わった」
ルカが言った。
「実験を続けるかどうかは、お前が決めろ」
アレクシスはしばらく答えなかった。
やがて測定器から手を離し、ルカを見る。
「明日も同じ時間だ」
「続けるのか」
「一度の結果で結論を出すなと言ったのは貴様だろう」
ルカの口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
「その通りだな」
「勘違いするな。貴様の仮説を信じたわけではない」
「分かっている」
「次は、偶然ではないと証明する」
止まっていたマギコアが、再び動き始めた。
それはまだ、誰にも知られていない小さな変化だった。
だが――もしこれが偶然でないとしたら。
この世界の常識そのものが、今まさに崩れ始めているのかもしれなかった。




