都合のいい被験者
ヴァン魔法学院の図書塔、その地下二階には、学生がほとんど立ち入らない旧資料保管室がある。改訂によって使われなくなった教本、学会で否定された論文、著者すら忘れられた研究記録。現在の魔法学において価値がないと判断された資料ばかりが、埃をかぶって眠っていた。
「価値がない、ねえ」
薄暗い書棚の前で、ルカ・エインズは小さく笑った。癖のある黒髪は無造作に切られ、制服の襟元も少し緩んでいる。身だしなみに厳しい貴族科の学生が見れば眉をひそめるだろうが、本人は気にしていなかった。
ルカが手にしているのは、革紐で束ねられた古い研究記録だった。表紙には、かすれた文字で一人の名が残されている。
エドガー・エインズ。
かつて王宮に仕えた魔法医であり、ルカの祖父でもある。
頁を開くと、人体を模した図が現れた。胸部にあるマギコアと、そこから全身へ伸びるマギベイン。現在の教本にも載っている、二つの魔力器官だ。ただし、祖父の図にはもう一つ、マギコアの近くに名前のない小さな円が描かれていた。
『同程度のマギコアを持つ者であっても、魔力の回復速度には明確な個人差が存在する』
ルカは祖父の筆跡を目で追った。
『年齢、生活習慣、術式の習熟度を考慮しても、なお差は残る。マギコアとは別に、魔力の生成へ関与する器官が存在する可能性がある』
祖父が残した、第三器官の仮説。
魔力はマギコアに蓄えられ、マギベインを通って全身へ運ばれる。それが現在の定説だ。だが、マギコアが魔力を蓄えるだけの器官ならば、消費された魔力はどこで生み出されているのか。
エドガーは、その疑問に踏み込んだ。
だが、理論は認められなかった。
エドガーが平民だったからだ。
そして、医者だったからだ。
王宮魔法医として傷ついた魔導士を診てはいたが、自ら戦場に立った経験はない。戦闘魔法を中心に発展してきた魔法学界にとって、平民の医者が唱えた未知の器官など、検討する価値すらないものだった。
『実戦を知らぬ者の空論』
『平民の身で魔法学を語るなど身の程知らず』
祖父の記録には、理論への反論よりも、彼自身を否定する言葉が多く残されていた。
「正しいかどうかなんて、最初から見ちゃいなかったんだな」
ルカは研究記録を閉じた。
祖父の理論は完成していない。第三器官らしきものを直接発見したわけでもなく、その働きを証明する実験にも成功していない。ただ、魔力回復に関する既存理論の矛盾と、未知の器官が存在する可能性を示しただけだ。
それでも、すべてが空想だったとは思えない。
ルカ自身が、その可能性を感じていた。
彼のマギコアは大きくない。入学時の測定では、学院の平均をわずかに上回る程度だった。宮廷魔導士を目指す者としては、明らかに物足りない数値である。
その一方で、魔力の回復だけは比較的早かった。魔力を使い切っても、他の学生より短い時間で動けるようになる。祖父の仮説が正しければ、ルカは魔力を生成する能力に多少恵まれているのかもしれない。
あくまで、多少だ。
実技成績は中の上。平民の中では優秀だが、学院全体で見れば埋もれる程度である。魔力量は徐々に増加しているが、術式の威力は以前ほど伸びなくなってきた。
「このままじゃ、宮廷魔導士なんて夢のまた夢か」
ルカは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
宮廷魔導士になる。
功績を立て、爵位を得る。
その立場から祖父の理論を証明する。
どれほど正しい理論を唱えても、平民の言葉では学会に届かない。ならば、無視できない身分を手に入れるしかない。祖父が持てなかった発言力を、自分が得るのだ。
だが、宮廷魔導士に求められるのは学識だけではない。何よりも、戦場で通用する魔法の実力が必要になる。
今のルカには、それがない。
「まずは、この理論を使えるものにしないとな」
机の上には、学院の測定記録を書き写した紙が並んでいた。学生ごとのマギコア容量、魔力消費量、回復時間、実技成績。正規の手続きを踏んで閲覧した資料ではない。
ルカは数字を指でなぞる。
同じ程度のマギコアを持つ学生でも、魔力の回復速度は異なる。さらに、日常的に魔力を使っている学生ほど、回復が早くなる傾向もあった。
もし第三器官が本当に存在するなら、訓練によって成長させられる可能性がある。
それを証明できれば、祖父の理論を前へ進められる。そして、その訓練方法を自分にも使えるかもしれない。
問題は、実験相手だった。
ルカ自身を被験者にしてもいい。だが、元の能力が高くないうえに、測定と実験を同時に行うのは難しい。わずかな変化しか起きなければ、それが訓練の成果なのか、ただの誤差なのかも判断できない。
必要なのは、優秀な魔導士だ。
魔力制御に長け、同じ術式を正確に再現できる者。長時間の訓練に耐え、少しの変化も数字として記録できる者。そして何より、自ら限界まで鍛え続ける人間。
「そんな都合のいい奴がいたら、苦労しないんだけどな」
ルカが呟いた直後、地上から大きな歓声が響いた。地下の保管室まで届くほどの騒ぎに眉をひそめ、研究記録を鞄へ押し込む。
図書塔を出ると、多くの学生が第二戦闘場へ向かっていた。ルカは近くを通った男子学生の肩をつかむ。
「何の騒ぎだ?」
「公開戦闘訓練だよ。知らないのか?」
「興味がない」
「だったら聞くなよ。今日は首席と第二席が戦うんだ。ルーンハルト・エルディアと、アレクシス・フォン・ヴァルハルト」
男子学生はルカの手を払い、足早に去っていった。
ルカは二人の名前を頭の中で反芻する。
ルーンハルト・エルディア。学院最大級のマギコアを持つ二年首席。魔力量、術式、実戦能力、そのすべてにおいて隙のない天才。
そして、アレクシス・フォン・ヴァルハルト。
首席に次ぐ第二席。複数の術式を同時に扱えるほど制御精度が高く、首席を越えるために毎朝訓練を続けている。限界まで魔力を使い切ることも珍しくないという。
「制御は正確。毎日、限界まで鍛えている。それでも成長を求めている」
被験者に必要な条件が、一つずつ頭の中で重なっていく。
アレクシスほど優秀な魔導士なら、わずかな変化でも実技成績に現れる。訓練を止めるような性格でもない。何より、首席へ勝てる可能性があると伝えれば、実験にも食いつくかもしれない。
祖父の理論を証明できる。
自分の成長にも応用できる。
宮廷魔導士への道が開ける。
ルカの口元に笑みが浮かんだ。
「いるじゃないか。都合のいい奴が」
学生たちの流れを追い、ルカも第二戦闘場へ向かった。
この時の彼にとって、アレクシス・フォン・ヴァルハルトは首席を目指す努力家でも、学院の誇る第二席でもない。
祖父の理論を試すための、都合のいい被験者だった。




