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解剖中毒

 普通科棟は、魔法科棟と同じ学院内にありながら、建物の空気がまるで違っていた。魔法科では廊下の至るところに術式の保護板や実技場への案内が掲げられているが、こちらに並ぶのは植物画、人体図、鉱物標本の展示棚ばかりである。授業を終えた生徒の姿も少なく、夕暮れの廊下には二人の足音だけが長く響いていた。


 ルカは階段を二つ上がり、校舎の奥へ進んだ。迷う様子はなかったが、歩調は普段より明らかに遅い。先ほどまで教授たちの研究室を次々と訪ねていた人物とは思えないほど、目的地へ近づくたびに足取りが重くなっていた。


「知り合いなのか」


「一度だけ講義を受けた」


「解剖学を?」


「普通科の公開講義だ。医術を学ぶ生徒向けだった」


 ルカはそれ以上の説明を避け、廊下の突き当たりで足を止めた。扉の横には、他の研究室よりも大きな木札が掛けられている。そこには整った文字で、普通科解剖学研究室、ヴィオラ・シュタインと記されていた。


 木札の下には、小さな紙が貼り付けられていた。


 入室前に必ず声を掛けること。返事がなくても勝手に開けないこと。中から悲鳴が聞こえても、助手を呼ぶ前に三十秒待つこと。


 アレクシスが最後の一文を読み終えると、扉の向こうから硬いものが床へ落ちる音がした。続けて金属の器具が転がり、何かを引きずるような物音が響く。悲鳴こそ聞こえなかったが、紙の注意書きが冗談ではないことだけは分かった。


 ルカは数秒ほど扉を見つめた後、拳で三度叩いた。


「ヴィオラ教授。ルカ・エインズです」


「開いてるわよ」


 返事はすぐにあった。声だけを聞けば若く、明るい。研究室の異様な物音とは釣り合わないほど、客人を歓迎するような調子だった。


 ルカは扉へ手を掛けたが、すぐには開かなかった。隣で待つアレクシスへ一度だけ視線を向け、逃げ道がなくなったことを確かめるように息を吐く。そのまま覚悟を決めて扉を押した。


 室内には、薬品と蝋を混ぜたような匂いが満ちていた。壁際には人骨の標本が立ち、棚には大小さまざまな瓶が並んでいる。机の上には開かれた解剖書と図面が重なり、その隣には切り分けられた大型の魔獣の前脚が金属盆に載せられていた。


 部屋の中央では、白衣姿の女性が床へ膝をついていた。落としたらしい肋骨の標本を拾い集めながら、長い灰色の髪を無造作に背中へ流している。年齢は三十代の半ばほどに見えるが、白衣の袖には薬品の染みが残り、教授らしい威厳よりも作業場へ籠もる職人の印象が強かった。


「そこ、踏まないで」


 ヴィオラは床を指した。アレクシスの靴先から僅かに離れた場所に、小さな骨片が落ちている。彼が足を引くと、教授は満足そうにうなずき、それを拾い上げて机の上へ置いた。


「第三肋骨。昨日から探していたのよ」


「管理方法を見直した方がいいんじゃないですか」


「所在が分かったのだから、管理できているわ」


 ルカの指摘を当然のように退けると、ヴィオラは二人を見比べた。視線は顔から肩、胸元、腕、足へと順に移り、初対面の挨拶より先に身体の構造を観察しているようだった。


「片方は痩せ気味。睡眠不足。肩の高さに左右差がある。もう片方は鍛えているけれど、右腕を庇う癖が残ってるわね」


 アレクシスは無意識に右腕を動かした。マギベインを損傷した後、痛みが消えてからも僅かな違和感が残っていた時期がある。今では本人すら意識していなかった癖を、ヴィオラは立ち姿だけで見抜いていた。


「診察を頼みに来たわけではありません」


「では献体の相談?」


「違います」


「残念ね」


 ヴィオラは心底惜しそうに言ったが、そこで話を終わらせることはなかった。机の上に積まれていた本を片腕で押し退け、二人分の資料を置けるだけの空間を作る。床に落ちた紙については気にする様子もなく、ルカへ続きを促した。


「用件を聞くわ。講義を受けた生徒が、わざわざ日暮れに来たのだから、骨の名前を質問しに来たわけではないでしょう」


 ルカは鞄から記録を取り出した。魔法科の教授たちに何度も差し出した資料であり、表紙の角はすでに潰れている。ヴィオラはそれを受け取ったものの、最初の頁を開かずにルカの顔を見た。


「先に、何を調べたいのか話して」


「魔力の回復と成長についてです」


「専門外よ。魔力科の教授にあたりなさい。ハインツ教授あたりなら話を聞いてくれるでしょ」


「……未知の器官が関与している可能性があります」


 ヴィオラの指が止まった。


 それまで絶えず動いていた視線も、床へ落ちかけた紙を押さえていた手も、同時に静止する。室内に残ったのは、窓の外から聞こえる風の音だけだった。


「今、器官と言った?」


「はい」


「比喩ではなく?」


「身体の中に存在し、魔力を生成している組織か器官です。まだ仮説ですが、既存の魔法学では説明できない変化が起きています」


 ヴィオラはようやく資料の表紙へ目を落とした。先ほどまでの軽い態度は消え、指先で紙の厚みを確かめるように何度か撫でる。次に顔を上げたとき、その目には警戒ではなく、獲物を見つけた者のような集中が宿っていた。


「最初から話して」


 ルカはエドガーの記録について説明した。魔力を蓄えるマギコアと、身体へ通すマギベイン。それだけでは魔力の回復を説明し切れず、祖父が第三の器官を想定していたこと。弱い魔法を長時間維持する訓練をアレクシスに行わせた結果、回復速度と魔力量の双方に変化が現れたことを順に語った。


 ヴィオラは途中で意見を挟まなかった。魔法科の教授たちとは異なり、魔力量の順位や公開戦闘の評価には関心を示さず、訓練中に身体へ現れた変化だけを繰り返し確認する。脈拍、体温、睡眠、食欲、筋肉痛、頭痛、魔力枯渇時の感覚まで尋ねられ、アレクシスは覚えている範囲で答えていった。


「訓練を中断した期間は」


「一週間です」


「その間、回復速度の上昇も止まった?」


「測定上は止まりました。訓練を再開すると、再び変化しています」


「痛みは」


「ありません」


「倦怠感、発熱、食欲の増減は」


「目立ったものはなかった」


「排泄は?」


 アレクシスの返答が止まった。ヴィオラは質問の意味が伝わらなかったと考えたのか、さらに具体的な表現へ言い換えようとする。ルカが片手を上げ、それを遮った。


「必要ですか」


「身体が新しい活動を始めているなら、摂取と排出の変化は重要よ。魔力だけで器官が動くと決めつける理由はないでしょう」


 ルカは反論せず、記録用紙へ新たな項目を書き加えた。ヴィオラは満足した様子で資料を開き、今度は数字と日付を追い始める。頁をめくる速度は速かったが、流し読みではなく、必要な箇所を選別していることが質問から伝わった。


「第三器官があるとは言いきれないわね」


 資料の中ほどまで読んだところで、ヴィオラは告げた。ルカは表情を変えず、その先の言葉を待つ。魔法科の教授たちから否定を受け続けた後では、その一言だけで結論を判断するつもりはなかった。


「ただし、ないと断言できる資料も存在しない。あなたたちが観測しているのは、魔法の威力ではなく身体機能の変化よ。なら、魔法科だけで結論を出そうとする方がおかしい」


 ヴィオラは椅子から立ち上がり、壁に掛けられた人体図へ近づいた。図には骨格や内臓だけでなく、神経や血管の流れまで細かく描かれている。その中にはマギコアとマギベインも記されていたが、他の臓器と比べると構造は単純で、記載されている情報も少なかった。


「魔力器官は解剖学でも扱う。ただし、魔法科が定義した形を確認するだけ。マギコアは蓄える、マギベインは通す。教科書にはそれ以上のことがほとんど書かれていない」


「普通科でも、魔力器官の研究は進んでいないのですか」


「死体では働かないもの」


 ヴィオラは当然の事実として答えた。魔力の流れは死とともに失われ、解剖によって確認できるのは残された組織だけである。生きた状態で何が起きているかを調べるには、魔法学の測定と解剖学の観察を組み合わせる必要があった。


「あなたたちは、動いている身体の記録を持っている。私は身体の変化を観察できる。役割としては悪くないわね」


「協力していただけますか」


 アレクシスが尋ねると、ヴィオラはすぐには答えなかった。人体図から離れ、今度は彼の正面へ立つ。距離を詰めたまま胸元を見つめ、心臓の位置から腹部へゆっくり視線を下ろしていった。


「まず、あなたを調べる」


「訓練の記録なら、そこにあります」


「紙に身体は載っていないわ」


 ヴィオラはアレクシスの腕を取ろうとしたが、触れる直前で手を止めた。奇行ばかりが目につく人物ではあるものの、本人の許可なく身体へ触れることはしないらしい。掌を上に向け、診察への同意を求めた。


「脈拍、呼吸、体温、筋肉の状態。それから魔力を使う前後の変化を確認する。血液と尿も欲しい」


「切るつもりはないでしょうね」


「今のところは」


「今後もです」


「生きたまま切る方が、得られる情報は少ないわ。治癒の影響で組織が変わるもの」


 ルカが嫌そうに顔をしかめた理由を、アレクシスはようやく理解した。ヴィオラには善悪の判断が欠けているわけではない。ただ、研究の可能性を語る際に、相手が不安を覚える表現を避けるという発想がないのだ。


「学院の許可を得た正式な検査に限る。それが条件です」


「当然でしょう。無許可で生徒を解剖したら、標本室を取り上げられるもの」


 ヴィオラは初めて、学院の規則を守る明確な理由を口にした。アレクシスは安心すべきか迷ったが、少なくとも規則に従う意思はあるらしい。ルカは額へ手を当てたまま、話を前へ進めた。


「研究の監督者になってほしい。学院へ申請を出すには、教授の協力が必要です」


「申請書は書く。検査計画も私が作る。ただし、条件があるわ」


 ヴィオラは三本の指を立てた。参加者への説明と同意を徹底すること。訓練前後の身体記録を省略しないこと。異常を確認した場合は、本人の意思にかかわらず中止させること。その内容は奇妙な研究室の主から出たものとは思えないほど、明確で現実的だった。


「研究は面白い。でも、生徒を壊してまで確かめる価値はないわ。何か異常が発見されたら直ちに研究を止めること。壊れた身体から取れる情報は、壊れた理由だけだから」


 その言葉には、解剖を好む変人ではなく、人体を扱う専門家としての厳しさがあった。ルカは少し意外そうにヴィオラを見た後、立てられた三本の指へ視線を移す。


「その条件で構いません」


「俺も異論はない」


 二人の返答を聞くと、ヴィオラは資料を胸元へ抱えた。先ほどまで見せていた冷静な表情が崩れ、抑えきれない笑みが広がっていく。研究への協力を引き受けた教授というより、長年探していた標本の在りかを知った研究者の顔だった。


「では、明日の朝から検査を始めましょう」


「申請が先です」


「検査計画を作るには、予備検査が必要よ」


「正式な許可を得た検査に限ると、今決めたばかりです」


 ヴィオラは不満そうに唇を尖らせたが、反論はしなかった。机の上から申請用紙を探し始め、積み上がった本と骨格図を次々に床へ移していく。数分後、目的の紙ではなく小動物の頭蓋骨を見つけると、一瞬だけ嬉しそうに掲げた。


 ルカはその様子を見ながら、アレクシスへ小声で告げた。


「だから来たくなかったんだ」


「能力に問題はない」


「問題が能力以外に集中してる」


 ヴィオラは二人の会話を聞いていなかった。書類の山へ上半身を埋めたまま、申請書の所在を探し続けている。やがて机の下から皺だらけの用紙を引き出すと、それを高く掲げた。


「見つけたわ。これであなたたちを調べられる」


「研究を始められる、です」


「同じことでしょう」


 ルカは訂正を諦めた。アレクシスは差し出された申請書を受け取り、記入欄へ目を落とす。研究責任者の欄には、ヴィオラ・シュタインの名が迷いなく書き込まれていた。


 魔法科の教授たちが誰一人として受け入れなかった研究は、その日の夕暮れ、普通科の解剖学研究室でようやく学院へ提出する形を得た。


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