2:最強のペア
夏休みの最初の部活。野村先生に連れられて、俺と蕭は二年生のコートへ向かった。踏み込んだ瞬間、空気が変わった。二年生たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。睨む、という言葉がそのまま顔に出ていた。歓迎じゃない。なんだこいつら、という目をしていた。俺と蕭は同時に半歩後退りした。
「二年生のコートだけど……君たち、どうしたの?」
声をかけてきたのは、一人の先輩だった。腕にマスクをかけるように引っかけていて、正直痛いやつだなと思った。でも声は明るくて穏やかだった。
「ああ、俺は空閑雅也。当たり前だけど二年」
わかっているくせに、どうしてここに来たのかを聞いてくる。いや、わかっているのに聞いてくる。
「野村顧問に言われて来ました」
俺が答えると、空閑は少し眉を動かした。そして踵を返して、他の二年生と小声で何か話し始めた。人数の話をしているのは聞こえる。ただでさえ使用人数が多いコートを、誰かと共有するということが気に食わないのだろう。
しばらくして、空閑が戻ってきた。
「……入っていいよ」
俺と蕭はコートに足を踏み入れた。二年生同士の会話が弾んでいた。試合のこと、負けたこと、次の大会のこと。俺たちには一切向いていない話だった。コートでは形式と呼ばれる練習が行われていた。前衛をつけた全面でのラリー。サーブから始まる模擬的な試合。二年生たちはそれをサーブからの形式と呼んでいた。
うるさいなあの先輩……。
空閑の笑い声がうるさかった。よく通る声で遠慮がない。でも誰かのプレイ中は誰よりも静かにいた。それだけは素直に、すごいと思った。
蜂谷の番が回ってきた。相手は知らない先輩だった。ヒョロガリで弱そうだった。その先輩が構える。蜂谷は構えを見た瞬間、何かを感じた。低姿勢で内股気味のその姿勢だとすぐに足が出てこないはずだ。俺はファーストサーブを放った。サービスラインギリギリ。先輩は軽々と返した。
速っ。はやすぎる。
俺はロブで返した。スピンを抑えたフラット気味のショット。そのせいでコート後方まで追いやられた。相手前衛は空閑だ。
ロブの高さ、甘かった!
蜂谷のロブを空閑がスマッシュを放った。でも浅い。浅くなったところは、蜂谷がパッシングで切り返す。だがヒョロガリ先輩は構わず強打してきた。またフラットで鋭く、重い球が俺のバックハンド側の足元へと刺さった。
「取れない……」
俺は拳を握った。期待と悔しさが同時に胸を叩いていた。
侮れない。強い、この先輩は。
俺のセカンドサーブ。また先輩は強打を放つ。俺はコートの端であるアレーを狙って食らいついた。少し浮いた。そこへ横から介入してきた空閑がポーチボレーを決めた。
誰もが終わったと思う盤面。それを俺の味方前衛の先輩が取った。体格が大きい太った先輩だった。体当たりするようにラケットを当てて、球を跳ね返した。浮いてしまったが前衛の上を通った。
来い! 俺は構えた。
空閑が回り込んで高い打点での強打、いわゆるトップ打ちを決めた。一瞬でボールは鉢山に近づく。またもやバックハンド側へ打ち込まれた。今度こそバックで拾おうとした。
重い。重すぎる。
俺の球はネットの白帯に当たって、カチッと音を立てて転がった。そこで俺の初めての形式は終わった。
並び直そうとすると、先輩が話しかけてきた。
「上手いじゃん」
「清水」と名乗った先輩は、柔らかくボーとした顔をしていた。
「そんなことないですよ」
俯きながら答えた。バックハンドは硬式とは違う。ダブルスだとバックハンドのスライスで浮いた球をボレーされてしまう。もっとバックハンドを磨かないと……と、考えていたその瞬間、コートの端から声が上がった。
「すげー!」
蕭のプレーを見た先輩たちの声だった。気づけばそちらを向いていた。蕭が先輩を振り回して、最後にスマッシュで決める。先輩たちが顔を見合わせている。
「あの一年、つよっ」
「一二三と同じくらい強くない?」
一二三? 多分、さっきのヒョロっとした先輩のことか。
俺は感心していた。蕭がすごいと思っていた。
でも同時に悔しかった。
俺の番がまた回ってきた。
相手はまた一二三先輩。向かい合った瞬間、俺は気づいた。
怖い。恐怖、という感情がこれほど純粋な形で湧いてきたのは、いつぶりだろう。負けるのが怖いんじゃない。通じないのが怖かった。俺の全力がこの人に何も届かなかったら、という恐怖だ。さっきのポイントを奪われた瞬間の感触がまだ手に残っている。あの重さ。あの速さ。俺の知っているテニスよりも、一段上だった。
でも同時に、胸の奥に別の感情が生まれていた。
もっとやりたい。こいつを相手にして、もっとやりたい。通じるかわからない。勝てるかわからない。だけど全力を出したい。出し切りたい。ネットを挟んで向かい合うこの感覚が、たまらなく好きだった。怖くて、でも目が離せない。逃げたくないのに足が震えている。これがテニスだ。これが、俺がずっと求めていたものだ。
ラケットを握り直した。手の平に汗をかいていた。俺は一二三先輩に向けて、全身を使った全力の強打をぶつけた。コートの後方へ、球が突き刺さる。先輩はフラットで強打した。俺は強打で返した。また先輩が打つ。俺は相手前衛の上を抜くロブを放った。
今度は甘くない高さ。
一二三先輩が回り込む。トップ打ちを狙った。
「あ、」
ボールはネットにかかった。静寂が一拍あり、ボールがコロコロ転がった。
「え、あの後輩えぐすぎだろ」
「あんな球出せるのか」
俺は表情を変えなかった。でも胸の中で何かが燃え上がっていた。通じた。届いた。
だがその中でただ一人、不服そうな顔をしている先輩がいた。
空閑雅也。
腕に引っかけたマスクを、無言で口に着けた。
形式が終わって、「飲み物勝ってきます」と野村顧問に伝え、許可をもらったところで二人が駆け寄ってきた。
佐原ミライと渡部陸斗だった。佐原はひょろっとしていた。手足が長くて、体に肉がついていない。風が吹いたら折れそうだ、は言いすぎか。渡部はその真逆。小さくて少しデブで、目がくりくりしていて憎めない顔をしている。
「先輩、強かった?」
渡部が前のめりに聞いた。目が輝いている。
「いや」
俺は視線を外して即答した。
「強くなかった」
隣で蕭も同じタイミングで言った。
「いや」
二人の声が重なった。渡部と佐原は顔を見合わせた。そして何かを察したのか、それ以上は聞いてこなかった。ただ渡部だけが「……そうか。お前ら最強だもんな」と言った。俺と蕭は視線を交わさなかった。でも、同じことを思っていたはずだ。強くなかった、とは言ったが、楽しくなかったとは言っていない。
明後日のこと。
練習が始まる前に、俺は野村先生を捕まえた。
「野村顧問、ちょっといいですか」
「なに?」
「ウェブサイトで調べてみたんですけど、大会って団体戦と個人戦があるじゃないですか。団体戦って誰と組めばいいんですか?」
野村先生は少し考えてから答えた。
「個人戦と同じペアでいいと思うよ。あと、一年生は団体戦ないから」
「個人戦と……同じペア?」
俺は眉を寄せた。
個人戦、というのは、個人で戦うものではないのか。ペアとはどういうことだ。
「個人戦と同じペアってどういうことですか?」
先生がきょとんとした顔をした。
「えっ、蜂谷くん知らなかった?」
「何をですか」
「個人戦はシングルスじゃないよ。ダブルスだよ」
俺の思考が止まった。
「この地域の中学、シングルスないから。というか中学校はダブルスがメジャーだね」
止まった。完全に時が止まった。
ダブルス。ダブルス? 個人戦がダブルス? シングルスがない? 俺は今まで何を思い描いていたんだ。コートに一人で立って、相手と打ち合う。それが試合だと思っていた。おかしいと思ったんだ。形式をやって何が良いんだって。コートに入る人数に制限があるからだと思い込んでいたんだ。隣に誰かがいる。俺の隣に、誰かが立って、一緒に試合をする。そういうことなのか!?
「……知りませんでした」
搾り出すように言った。先生は苦笑いをしていた。「シングルスなら硬式行ったほうがいいね。まあ中学にはないからスクールとかアリだと思うよ」
野村先生はコートに向かう。俺はしばらく、その場から動けなかった。
その日の俺は、先輩のコートへ行く気になれなかった。テニスコートのベンチに腰を下ろして、足を組んだ。頬杖をついて、蕭のプレーをぼんやりと見ていた。蕭の相手は渡部陸斗。蕭は俺が行かないという理由で、『ザ・人見知り』を発動させ、先輩のコートには行かなかった。
渡部はまあまあ上手いが、この頃の俺は眼中にもなかった。
ため息が出た。
「あ、」
ラリーが終わって、蕭が歩いてきた。ベンチの横に立って、緑のペラペラなタオルで汗を拭いている。
「個人戦、ダブルスらしい」
「……知ってた」
「え?」
「入部する前に調べた」
腹が立った。言えよって思った。
「なんで言わなかったんだよ」
「聞かれなかったから」
蕭は当然みたいな顔で言った。本当にうざいやつだ。
「じゃあペア誰にするんだよ」
「決まってない?」
「決まってるわけないだろ。今日知ったんだから」
横から声が割り込んできた。
「二人で組めばいいじゃん」
岩瀬光だった。渡部と一緒に近づいてきていて、さも当然というように言った。
「最強ペアじゃん、それ」
「最強って」
俺がベンチから立ち上がり、カバンの中の水筒を取り出した。
「だって二人が一番上手いじゃん」
誰も否定しなかった。
渡部が蕭の隣に座る。
「……まあ」と蕭が言った。「どうする? 蜂谷。俺は別に組んでもいいよ」
俺は水筒をガブガブ飲み、ネットへ寄りかかって、空を見上げた。
ダブルス。蕭と二人でコートに立つ。前衛と後衛。硬式にもダブルスはあった。でもソフトテニスのダブルスは違うと、先輩たちのプレーを見ていて感じていた。もっと連動している。もっと会話している。
「わかった」
俺は言った。「組む」
「いいじゃん。じゃあ俺と鈴木も組もっと」岩瀬はそう言った。
渡部が「俺らは?」と言ったので、「佐原と組めば」と蕭が答えた。渡部は「うーん」と悩んだ顔をして、でも最終的に「まあいっか」とうなずいた。
少し間があったな、おい。
「あ、そういえば」と岩瀬が思い出したように言った。「宿題、終わった?」
全員が黙った。
「……どれくらい」と渡部が聞いた。
「数学ワーク40ページ、毎日英語30ページ、国語は読書感想文2000字。あと理科と社会が各プリント10枚。新聞を切り抜いてまとめるみたいなのも……あった気がする」
「終わるわけないだろ」
俺は立ち上がって、ラケットを拾った。終わる気がしない。ダルい宿題は最終日にやるもんだ。
夏休み中間に入ると、ペアの確認が行われた。
野村先生が読み上げる。
「蜂谷蓮・蕭浩然。佐原ミライ・渡部陸斗。岩瀬光・鈴木相馬。小山田一平・水之宮太郎……」
次々とペアが読み上げられていく。全員の確認が終わると、すぐ練習に入った。
「なあ蕭、中二休み多くないか?」
この夏休み、先輩方はなぜか休みが多かった。顔が見えない日が続く。サボりかも知れないと腹が立った。
その件に関して言うと、前テニス練習の終わりの整備の時、俺は聞いてしまった。
「清水くん。君終わった? 宿題。まだ春課題すら出してないじゃん」
「え」
俺は思わず声を出しそうになったが、手で口を押さえて聞き耳を立てた。コートの外、ベンチの近くで野村顧問と中学二年生ソフトテニス部長の清水が喋っていた。清水はボーとした表情をしていて何か目立つものがない。唯一あるとしたら、テニスの時まあまあの速度のボールを、再現性良く打ってくる。それくらいだ。
「そろそろ提出してよ。補修とかになって高校連絡進学が出来なくなったら、ほんと洒落にならないからさ。頑張ってよ」
「はい。少しずつ頑張ります」
マイペースだな。と俺はこの時強く思った。それと同時に少しだけ落胆もあった。この学校に俺が入ったのは高校から偏差値75に上がるという学習に対して手厚いからだ。だがこんなやつが進学校にいてはならない。ましてや部長なんて……。
「次の練習は宿題を終わらせることに専念して、休みなさい」
野村顧問は少し厳しい口調でそう言った。
でも、なんだかんだその休みのおかげで、コートが一面余ったらしい。俺は容赦なく使うことにした。
「俺が一で、お前らが三。勝ち上がりな」
相手は佐原、渡部、そして當間大地の三人だ。當間は小柄で、他のやつから「小三」(小学三年生の略)と呼ばれていた。言われている時、嫌な顔をしていたが、彼の顔はまあまあ整っている方だ。佐原は相変わらずガリガリ。渡部は相変わらずデブ。
球出しを受けて、俺は軽く返した。フォアハンドでカットをかけた。ボールがバウンドした瞬間、急激に左へ曲がる。當間が空振った。
「ぐあああっ」
ラケットを振り回し、一回転した。
「ずるい!」
「どうやってんの!? 曲がり方キモい!」
三人が口々に騒ぐ。俺は少しだけ笑った。
「こう持って、こう当てる」
ラケットの角度を見せた。三人が球出しでそれをしようとしたが、コート外に飛んでいく。諦めて普通の球出しをした。俺はバックでカットをかける。渡部は空振り、「それ返せないんだけど」と強く言った。
「だから教えてあげてんだろ」
「いやそういうことじゃなくて」
俺は笑った。自分で思うより笑っていた。三人が必死に向かってくる姿が、なぜか愛おしかった。魔王に挑む勇者みたいで、面白かった。快感だった。これが部活なのかと知った。
【この頃は眼中になかった。
佐原ミライも、渡部陸斗も。當間大地も。
……いつからか。
俺は変わってしまったんだな】
次の日の部活、スクールバスで登校した。片道、電車合わせて一時間かかる。通学だけでとてつもなく疲れた。いつも通り窓際に座ると、渡部が横に座ってきた。目が合ったので軽くうなずいた。渡部と俺は同じクラスでたまに喋る。気楽な関係だ。
バスが発車しようとドアを閉めようとした瞬間、佐原ミライが乗ってきた。俺と佐原は気まずい。理由はうまく言えないが、なんとなくそうだった。渡部と俺はまあまあ仲が良いのだが、友達の友達となると話は変わってくる。渡部がさっと席を立って、「蜂谷の隣空いてるよ」と言った。
空気呼んでくれよ、余計なことを。
佐原は少し戸惑った顔をして、でも断りにくかったのだろう、隣に座った。俺は窓の外を見たまま、無理やり口を開いた。
「今日、練習試合あるな」
「うん」と佐原が言った。
沈黙が続いた。俺は、何か喋れよと渡部を睨んだ。渡部は一人でイヤホンしてゲームをしている。バスのエンジン音だけが響いた。
「蜂谷くんってなんでそんなテニス上手いの?」
「んー、昔からやってたからかな」
「昔っていつ頃?」
「小学三年生?」
俺はカッコつけるために嘘をついて盛った。
「あ! だから上手いんだ」
「うん」
そこから地獄のような会話が続いた。そして俺はまた渡部を睨む。
練習試合が始まる前の乱打。
蕭は体が硬かった。球の出し方も、ラケットの振りも、いつもと変わらないはずなのに、何かが違った。俺にはわかっていた。なぜそうなったのか。
夏休みが始まる前のことを、思い出す。
あれは学校についた朝のことだった。教室の扉を開けた瞬間、まるで犬のように蕭が飛びかかってきた。本当に飛びかかってきた。肩に抱きついて、「おはよー」と言う。それが三週間くらい続いた。最初は悪くなかった。なんだこいつ、と思いながらも、嫌じゃなかった。
だが、ある日の廊下で聞いてしまった。
「蜂谷くんって、男の子好きなのかな」
朝倉鈴鹿の声だった。
胸がドキッとした。そう見られている。俺がそう見られている。小学校の頃のことが、フラッシュバックした。勘違い……勘違いなんだ! 無理だ、俺は……無理なんだ!
次の日、また蕭が飛びかかってきた。
「やめろよ」
笑わない声で言った。周りが静まった。蕭が固まった。
俺は慌てた。「ま、まあ……ちょっとやりすぎじゃないかと思ったから……」
言い訳にもなっていなかった。蕭は何も言わなかった。悲しそうな顔をして、無言でその場を去った。飛びつきは彼なりの、愛情表現だったのかもしれない。ペアになってくれて、ありがとうみたいな。
この頃の俺は、災難が去ったと安堵していた。その日以降、蕭は俺への態度が変わった。冷たい、というほどではない。でも距離があった。それまでとは違う、乾いた距離が。
乱打を止めて、野村先生が合図をかけた。
「全員集合してください」
全員がラリーをやめて集合した。相手校の選手たちと向かい合う。
「菅井中学校です。よろしくお願いします」
「一ノ瀬工業大学附属中学校です。よろしくお願いします」
声が揃った。蕭の声も聞こえた。俺の隣にいるのに遠い気がした。
そしてこの後、俺と蕭の一度目の大喧嘩が起こってしまうことになる。




