1:ソフトテニスとの出会い
2022年のこと。俺がソフトテニスと出会ったのは、中一の春だった。
「蜂谷くんは部活どこ行く予定なの?」
同級生であり中学一年生、宮嶋一春は俯きながらそう聞いた。太い縁の眼鏡が、後頭部を通した紐でがっちりと固定されている。妙なやつだなと思いながら、俺は答えた。
「うーん……まあ、陸上かな」
嘘だ。
俺の中はテニスのことしかない。小学三年生からラケットを握り続けてきた。硬式テニス以外の競技をするなんて、考えたこともなかった。この学校にあるのはソフトテニス部だけ。中学全般がそうなのかもしれないが、ここは中高一貫の進学校だ。入学してから初めて知った。硬式がないと。
「陸上か! 蜂谷くん体大きいもんな。あとイケメンだし、どんな部活でも似合いそうだ」
俺は照れ隠しで、曖昧に笑うことしかできなかった。
「そろそろ昼休みが終わる時間だな」
「うちチャイム鳴らないから、慣れないと」
この頃の宮嶋は真面目だった。その後の定期試験で200位中、20位を叩き出し、先生にもフレンドリーに話しかけ、周りからの信頼も厚かった。そして彼がナマコと呼ばれ始めるのは、ずっとずっと先の話だ。
放課後のことだった。俺はなんとなく陸上部の見学へ向かった。小学校では最高学年として何も怖くなかったのに、今は違う。グラウンドの縁に立った瞬間、胸に感じたことのない感情が芽生えた。
怖い。
そしてもう一つ。
「……速い」
百メートルという距離が、たった12秒で走られる。
「ねえ、君」
振り返ると、180センチはあろうかという中三が立っていた。
「走ってみる?」
「すみません、今日は体操服が……」
「じゃあ明後日また来てよ」
先輩は俺の足をじっと見て、隣の同級生に小声で何か耳打ちした。聞こえなかったが、内容は想像できた。テニスを何年もやれば、脚の筋肉がつくのは当然のことだった。
「はい」
元気よく返事をして、その場を離れた。話しかけられた瞬間、心臓が止まるかと思った。
帰りの電車は一時間ちょっと。宮嶋と話していたらあっという間だった。
「母さん。陸上部、入ろうと思う」
キッチンで夕飯の支度をしていた母が振り向いた。小太りで小柄だが、頼りがいだけは誰より大きい人だ。こう見えて若い頃はとても優秀な人材だったらしい。
「そうなの? まあ硬式ないしね」
冷蔵庫の側面に磁石で張りつけた紙を、指でとんとんと叩く。受験の志望校一覧。一番上の学校だ。
「あっちにしておけばよかったのに」
「しょうがないじゃん。硬式がないなんて知らなかったんだから」
「まあそうだけど……蓮にはやっぱりテニスが合ってると思うの」
「ポンポンするだけの柔らかいテニスなんてやらない。俺は陸上部に入るんだ」
上の階へ駆け上がり、自室の扉を勢いよく閉める。ベッドに倒れ込んでスマホを開いた。会話機能付きのアプリ。友達は12人。普通だと言えば嘘になる。ブロックリストを開く。
130人。
大きなため息をついた。
「おもんな」
この頃の俺はソフトテニスを一度も見たことがなかった。それなのに硬式テニスの劣化版だと決めつけていた。コーチが「硬式とソフトはだいぶ違う」と言っていたのを、都合よく曲解していた。競技の性質やボールの話だったのに、俺はそれを格の差だと読み替えた。
翌日の放課後、部活の案内ボードを確認した。
陸上部:第一グラウンドで待ってます!
視線をずらすと、もう一行。
ソフトテニス:中コート
靴を履き替えて歩き出す。足は陸上部のある第一グラウンド方向へ向く。でも脳の中で、昨夜の声が繰り返された。
『蓮にはテニスが合ってると思うんだけどね』
ため息混じりに「はっ……うぜー」と言うと、口角が少しだけ上がった気がした。テニスが合ってると言われるのは良くあることだが、俺がテニスを選ぶのではなく、テニスから俺を選んでいるように感じたのは、初めてだった。何かの縁で……と、気づいたら、別の方向へ歩き出していた。
中コートは、校舎の裏手にあった。フェンス越しに見えたのは、三面のコート。そしてそこで白球を打ち合う人たちの姿だった。
俺は三秒、固まった。
うそだろ、速くね?
ボールが見えない。いや、見えるには見えるのだが、目で追いかける前にもうラケットに当たっている。スパンッ、という乾いた打球音が鳴るたびに、コートの端へとボールが叩き込まれる。先輩たちのラリーはテンポよく続いていた。フォームが一人一人違うのに、どれも美しかった。
正直俺はソフトテニスを舐めていた。
それを認めるのは癪だったが、事実が目の前に突きつけられていた。
誰だ、あいつら。
フェンスに指をかけながら、そう思った。あいつらは何者なんだ。あんな動きが人間にできるのか。どこかで悔しいという感情が生まれていた。俺はテニスをやってきた。なのにこいつらは、俺の知らない場所で、俺の知らない速さで動いている。
……いや、俺のほうが出来るだろ。あんな速度は優に超えられる!
「見学ですか?」
「え」
声をかけてきたのは、スウェットを着た大人だった。二十代前半に見える。線が細く、でも穏やかな目をしていた。
「えっと……体験って出来ますか」
「もちろん。一年生はコート外でショートラリーとボレーボレーをやってるので、一緒にどうぞ」
その大人が指を指した方向には、中一の男子が10人前後たむろしていた。みんな似たような顔をしている。右も左もわからない顔。俺も同じだろう。
その中で、一人だけ動きが違うやつがいた。ボレーボレーの動作が、他のやつより一テンポ早い。体の軸がぶれない。球が来る前にもうラケットの面ができあがっている。俺はそいつに近づいた。
「ねえ、一緒にやらん?」
そいつがこちらを向いた。ひょろっとしていた。背は俺より少し低い。顔は……なんというか、少し間が抜けている。眠そうな目と薄く開いた口。あんな顔して、あんな動きをするのか。
「えっと、お前上手いなって思って」
「え、そう? ま、まあ……」
曖昧に首を傾ける。腹が立つような、面白いような顔だった。
「名前は、蕭 浩然」
隣にいたもう一人が手を上げた。パッとしない顔の少年だった。悪い意味じゃない。本当に特徴のつかみどころがない、ごくふつうの顔をしていた。
「岩瀬光。よろしく」
「蜂谷蓮。よろしく」
ラケットを一本借りた。軽い。硬式ラケットのグリップみたいに楕円形じゃない。岩瀬がさっと横へどいて、俺と蕭の間に小さなネットが置かれた。
「ボレーボレー、やろ」
「おけ」
「わかるよね?」
「わかるよ」
ぽん、と蕭がボールを上げた。
来た球を合わせる。
「……っ!」
変だ。ボールが柔らかい。硬式のあの衝撃とは全然違う。面に乗ってくる感触がある。ふわっとして、でも飛ぶ。なんだこれ。
「こんなボールなんだな……」
思わず声に出た。
だが面白がっている暇はなかった。蕭が次の球を返してくる。合わせる。
「あ、ごめん」
ラケットの端に当たって、ぜんぜん違う方向へ飛んでいく。
「むずっ」
蕭はにこりともせず、こちらへ球を出し続ける。俺は必死に合わせる。右へ飛ぶ、左へ飛ぶ、上へ飛ぶ。蕭だけが正確に、次々とボレーを返し続けていた。
は? なんでこんなに難しい。
感覚が全部ずれている。ボールの跳ね方、スピード、弾み。硬式でやってきた全部が微妙に噛み合わない。
それでも、少しずつ……
当たり始めた。
「お、」
岩瀬が声を上げた。
俺と蕭のボレーが、三回、四回と続く。五回。七回。面が合ってきた。ボールの柔らかさが、わかってきた。
「離れてみない?」
俺が提案すると、蕭が一歩下がる。俺も一歩引く。距離が広がる。途端に難しくなる。ワンバウンドしてしまう。でも拾って、またボレーへ。
なんだこれ。
俺は笑いそうになっていた。笑ってどうするんだと思いながらも、口元が緩んでいた。
楽しい。難しくて、うまくいかなくて、それでも続くとものすごく楽しい。ボールが柔らかくて、面に乗ってくる瞬間がたまらない。
「すごっ、うまい!」
岩瀬が横でぴょんぴょんしていた。さっきまでパッとしない顔だと思っていたが、今は素直にいいやつだと思った。
練習が終わったのは、5時を回った頃だった。
帰り支度をしていると蕭が隣に来た。
「蜂谷くん、同じクラスだよ」
「……ほんとだ」
言われて気づいた。同じ教室にいたのに、名前も知らなかった。
「帰り一緒に行こ」
バス停で俺達はスクールバスを待っていた。上手く会話が繋がらない。
「ソフトテニス、どうだった?」
俺は少し間を置いた。
「……楽しかった」
得意げでも偉そうでもなく、ただそれだけ言った。
「硬式やってたの?」
「小三から」
「なんかわかった。動きが硬式打ちだって」
「でもミスばっかりだった」
「いや」と蕭が言った。「蜂谷、途中から笑ってたよ」
「そんなことない」
「笑ってた。普通に」
バスが来た。乗りこもうとした。
「ソフトテニス部、入るの?」
後ろに立っている蕭へと体を向け、ドアの外付近で蕭にそう問いかける。
「入った。今日から部員」
「早いな」
バスにはまだ乗り込まない。
「蜂谷くんは?」
俺は答えなかった。そういえばボレーボレー中、途中から笑っていた気がする。気づいていなかった。
「……考える」
「まあ」と蕭は言った。「入ってよ。蜂谷は強いし」
「は、はぁ」
腹の立つ言い方だった。でも間違ってもいなかった。
「ほら、バス乗るぞ」
「俺、こっち方面のバスじゃない。あっちのバス」
「ああ、そうなん」
俺だけがバスに乗り込んだ
この日、この学校で、二人目の友達ができた。
翌日は土曜日だった。
俺は満足そうに眠っていた。昨日のボレーボレーの感覚が、夢の中まで続いていた気がする。
ドン、と扉が開いた。
「蓮! 土曜日、学校あるんだって!」
目が覚めた瞬間、母の声と室内の明るさが同時に飛び込んできた。時計を見た。
「は……あんの?」
一時間遅刻した。
息を切らして教室に入ると、蕭が振り向いた。そして笑った。
「ぶふっ」
独特な笑い声だった。なんだ「ぶふっ」て。でもなんかおもろかった。
「遅刻したのに笑うなよ」
「だってまだ入学して一週間も経ってないのに、遅刻するなんて」
「知らなかっただけだし」
放課後、部活へ向かうと今日は外コートだと言われた。普段使っている中コートの三面は高校生が使うらしい。代わりに外コートの三面と、設備の整っていない一面。一年生はその設備なしの一面を使えるとのことだった。
ボールかごを運んでいると、顧問の先生が球出しの準備を始めていた。
野村雄英先生。二十代後半に見える、背の高い男性だ。顔立ちが整っている。昨日俺に話しかけてくれたスウェットの人だ。
「若くてイケメンだよな」と誰かが言った。
「優しいし、いい先生だよ」と別の誰かが答えた。
二列に並ぶ。手出しのフォアとバックをやるぞと野村先生は言った。一年生男子は全部で十五人ほど。俺はフォアの最後尾に並んだ。
前のやつらが順番に打っていく。ぽこ、ぽん、ぽこ。可愛い音がコートに散らばる。当然ネットばかりだった。俺の番になった。野村先生がボールを出す。
バンッ。
銃声のような音が、一瞬コート全体を黙らせた。
「……やば」
「はやっ」
「何あれうますぎでしょ」
俺の球はコートの隅に叩き込まれていた。でも俺は満足していなかった。
狙った場所じゃない。まぐれだ。それにもっと威力を出せる。
バックの列に移る。球出しを受けてスライスで返した。空中をすべるように弾道が伸びて、コートの中へ沈んでいく。
「すごっ」
「え、なんだあれ」
褒められた。でも俺は首を振りたかった。バックはアウト寸前だった。フォアは狙ったコースじゃない。これじゃだめだ。もっとコントロールしないと。もっと狙わないと。
焦りが胸の中に積もっていた。とにかく上手くならないと、という気持ちが俺の全てだった。この頃の俺は、それ以外のことを考えたくなかった。
蕭の番になった。左利きだ。フォームが綺麗で力は俺より全然ない。でもラケットの振りに無駄がなくて、ボールが空中をすべるように伸びていく。バックハンドのスライスは弧を描いてコートに吸い込まれた。
ザ・硬式だった。
「一年生、全員球拾い。ほら走って」と声がかかって、みんながコートに散らばった。拾いながら、隣のやつに話しかけられた。
「君、蜂谷くんだよね! 同じクラスの外垣遥斗。なんであんなに上手いの?」
「いや全然上手くないよ」
俺はそう答えた。笑わなかった。声のトーンも変えなかった。
俺は決めていた。クールでいようと。感情を出さないようにしようと。小学校の頃、あれが原因で俺は……。それ以来、笑うことをやめようとした。詳しくは思い出したくない。ただ、あれからずっと、俺の中には出さないという選択肢が染みついている。
球出しは終わり、ラリーが始まった。
蕭と向かい合ってネットを挟む。球を入れる。乱打、とみんなは呼んでいた。硬式で言うクロスラリーのことらしい。
続く。続く。
「蕭、やっていい?」と外垣が声をかけた。
「俺は蜂谷とやってる」
蕭はそれだけ言った。俺は何も言わなかった。でも悪い気はしなかった。
また、外野は唖然としていた。「すげぇ」「なんであんなに速く打てるの」
五球ラリーが続いて、俺が強打をかます。ボールがコートの外へ飛び出した。蕭は少しだけ満足げに笑っていたように見えた。そこでラリーは終わった。
残りの二時間の部活はあっという間だった。家に帰ると母がキッチンにいた。
「どうだった?」
俺は少し間を置いた。昨日あんなに意地を張ったくせに。ださいよ俺って。
「……テニス部、入る」
母はとても喜んだ。今日の晩御飯は、俺の好きなステーキにしてくれるらしい。
「ソフトテニスも、悪くねえな」
これは、蜂谷蓮がテニスの魔王と呼ばれるようになるまでの物語だ。あの春、中コートのフェンス越しに見た一発の白球から、全ては始まったのだった。
半月が経った。
相変わらずコートは使えなかった。ボレーボレー、ショートラリー、素振り。毎日毎日、同じことの繰り返し。それでも体は動かしていた。動かし続けていた。だが限界というのは、どこにでも訪れるものだ。
「なんでまだコート入れないんですか」
誰かが漏らした。それを合図に、あちこちから似たような声が上がり始めた。中一の男子というのは、扱いにくい生き物だ。プライドだけが先走って、実力が全然追いついていない。イキり始めた連中は顧問の前でも平気でそれを言う。俺はそいつらを白けた目で見ていたが、内心では誰より同じことを思っていた。
コートに入りたい。
ラケットを目一杯振りたい。全力でサーブを打って、全力で走って、全力でプレイしたい。この半月、それだけを考えながらボールを打ち続けてきた。
蕭もそう思ってる。
「……早く入りたいな」
ぽつりと言った蕭の横顔を、俺は横目で見た。何も言わなかった。ただ同じ気持ちだった。
学校でのことだった。
昼休み、廊下を歩いていると声が聞こえてきた。
「ねえ、蜂谷くんってイケメンくない?」
「わかる。雰囲気あるよね」
「なんか喋んないのがまたよくない? クールイケメンみたいでさ」
「え、わかる〜」
市原恵、島根皐月、坂下蒼井、朝倉鈴鹿。このクラスで一軍と呼ばれているような女子四人組だ。俺はその声を聞いてから、一切関わらないようにした。関わって得することが何もない。それは小学校の頃から学んでいた。
だが問題はそこから生じた。
その翌日、管山安栖斗が話しかけてきた。
「なあ蜂谷」
無視した。
「蜂谷って」
無視した。
「おーい」
また無視した。
管山と内沼駿は、一軍の男子グループの中心にいる。管山はセンター分けで縦長の顔をしていて、とにかくムカつく顔だった。口も臭い。その管山が毎日俺に話しかけてくるようになった。これをダル絡みと言わずして何という。
俺はひたすら無視して、かかわらないようにしていた。
それでも放課後が来ると、気持ちが少し軽くなった。
コートには入れない。でもボレーだけで繋ぐ『ボレーボレー』や、短くラリーをする『ショートラリー』がある。ボールが面に乗る感触。蕭との球の掛け合い。それだけで十分だと思っていた。
「なあ蜂谷」
その日、ボレーボレーの練習を終えた蕭が言った。
「ここで試合しよ」
ここ、というのはいつもの小さなスペースのことだ。横幅一メートルほどの小さなネット。高さは公式なコートと変わらないが、横幅は恐ろしいほど狭い。アウトラインの代わりに、ボールをいくつか置いてラインを作った。
「一ポイント先取。負けたら交代。岩瀬も入れて三人でやろ」
「わかった」と岩瀬が即答した。
俺は黙ってラケットを握り直した。
最初に当たったのは、俺と蕭だった。
岩瀬がコート外からボールを出す。そこから試合は開始された。蕭のショットは低い弾道でネットを越えてくる。
今のアウトにならないのか! ギリギリで入った。
俺は合わせた。返る。蕭が拾う。返す。俺が返す。
ボレーボレーになった。ふたりとも少しずつ前へ進んでいく。
スパン、スパン、スパン。いつの間にか周りが静かになっていた。
「す……すげー」
誰かが小声で言った。他の一年生が一人、また一人とプレイを止めて、俺たちの方を見始めていた。岩瀬でさえ、声を出すのを忘れて口を開けていた。
蕭の球が俺の頭上を超え、アウトラインギリギリへ入る。俺は急いで下がって面を合わせる。蕭が前に詰めて俺も詰める。また距離が縮まっていく。
ショートラリーになった。
打っては返す。返しては打つ。どちらも崩れない。
少しでも球筋が浮けば叩き込まれる。なら低い弾道で攻めたほうが有利になる!
俺は強烈な縦回転のスピンをかけた。蕭は必死に返して球が高く浮いた。
今だ!
俺は叩き込んだ。銃声のような爆音が鳴り響いた。
だが、ほんの少し、サイドへ外れた。
「アウト」
岩瀬の声が静寂に落ちた。
周りから「おお」という声が上がる。蕭が軽く息を吐いた。俺はラケットを下ろして、ネットを見た。
次は勝つ。
こんなにシンプルな感情が、こんなにはっきりと胸に灯ったのは、初めてだった。燃えていた。こんなに燃えたのは、初めてだった。
ある土曜日のことだった。
唯一コートに入れる日。みんなが浮き足立っていた。俺も同じだった。一週間のうちの快楽。ようやく広いコートで打てる。ようやく全力を出せる。
野村先生が、前に出た。
「ちょっと聞いてほしいんだが」
その声のトーンで、俺の全身は嫌な予感を捉えた。
「先輩方から、連絡がありまして。一年生にコートを使わせるな、と」
一瞬、空気が固まった。
「ど、どういうことですか」
俺は口を開いていた。
「先輩方も昔、同じようにコートを使えない時期がありました。それは今でも変わらない。でも今の一年生は、土曜日だけとはいえコートを使えている。それがずるいと」
野村先生の声は穏やかだったが、その内容は穏やかじゃなかった。
「でもずるいという感情だけで、俺らがテニス出来なくなるなんて」
部員全員、激しく頷いていた。
「……ごめんなさい。コートは狭いので、先輩方も昔苦労しました。なので七月までは譲ってあげてほしいです。貴重な練習時間を無くしてしまい、すみません」
俺はボーっと隣のコートを見た。先輩たちが打っている。フォームに無駄が多い。ラリーは力任せですぐ途切れる。俺の奥で何かが込み上げてきた。怒りとは少し違う。悔しい、という感情に近かった。あいつらに俺のコートを奪う権利があるのか。あいつらに、俺が何かを言われる筋合いがあるのか。でも何も言えなかった。先輩は先輩だ。ルールはルールだ。それが、何より悔しかった。
土曜日も憂鬱になった。平日も憂鬱だった。コートに入れる日が、完全になくなった。野村先生によると七月まで無理だという。入部してもう一ヶ月以上が経っていた。ちゃんとした練習は一度もしていない。だが俺は時間を無駄にしないよう、テニス以外のことに集中した。放課後は自習室で過ごすようにした。自習室といっても、解放されている教室があるだけだ。でも家より圧倒的に集中できた。家には中学受験の妹がいる。勉強の邪魔をしてはいけない。また六月に定期テストがある。今はテニスより試験を優先しなければならない。ノートを広げて、シャープペンを走らせていると
「よお、蜂谷」
顔を上げた。
「またかよ」
管山が教室の入口に立っていた。他に誰もいない。この教室には俺一人しかいなかった。
最悪だ。
管山はずかずかと入ってきて、俺の前の椅子を引いた。座るな。心の中で言い放つ。管山は座った。
「お前にいい情報あるんだけど。聞きたい?」
黙ってシャープペンを動かし続けた。
「教えてあげてもいいんだけどなー。どうする?」
どうするって何が。
体が勝手に貧乏ゆすりをしていた。ノートの文字が歪み、シャー芯が折れる。
「朝倉鈴鹿。お前のこと好きなんだって」
シャープペンが止まった。
朝倉鈴鹿。一軍の中でも特に存在感のある女子だ。ポニーテールで、雰囲気だけはギャルっぽい。髪の毛はこの学校では誰も染めていないが、あいつの周りは纏う空気が違う。うるさくて、目立って、常に誰かと群れている。俺のタイプとは、真反対の存在だった。
「は、まじで?」
思わず口から出た。その瞬間、何かがフラッシュバックした。
小学校の頃のこと。俺は頭を横に振って必死に考えるのを止めた。
「……どうでもいい」
「え、どうでもいいって? 勿体なくない?」
「どうでもいい。まじで」
「まあそっか」と管山は言った。「でもさ、俺がお前に情報やったわけじゃん。お前は何か持ってないの? お前なら色々知ってそうだと思ったんだけど」
ため息が出た。俺は無言でシャープペンをしまって、ノートを閉じた。立ち上がって教室を出ようとする。
「俺は何も知らない。興味もない」
管山がそれに対して何か言っていたが、聞こえないふりをした。
トイレに急いで直行した。水道の蛇口をひねって、水を溜める。両手ですくって顔に叩きつけた。ばしゃり。一回だけじゃ足りなかった。二回、三回……
鏡に、水が滴る自分の顔が映っていた。
『顔、だけはいいのに』
頭の中で、声が蘇った。
やめろ!
女の声だった。特定のだれか、ではない。でも確かに言われた言葉だった。
『アンタみたいな人、マジ無理なんだけど』
俺は自分の胸を、爪で引っ掻いた。
くっそ……やめろよ……もう振り返らないって決めたはずだろ。
試験はあっという間に終わった。結果は200位中、74位だった。まあまあの出来だった。
「宮嶋は何位だった」
「20位だよ。一桁狙ってたんだけどなぁ」
「すごいな」
「蜂谷くんも74位なら十分大丈夫だと思うけどな」
「全然十分じゃない」
宮嶋は少し笑った。俺はそれ以上何も言わなかった。
夏休み前のことだった。
部活が終わる頃、野村先生が「ちょっといいか」と全員を集めた。
「いくつか連絡があります。まず、12月に試合があります」
どよめきが起きた。試合。その単語が頭の中で弾けた。
「そして夏休みに入ったら、一面だけですがコートを使えるようになります」
わっと声が上がった。拳を握るやつ、隣と顔を見合わせるやつ、声に出して喜ぶやつ。俺は口を閉じたまま、でも胸の中で何かが沸き上がるのを感じた。
ようやくだ。
野村先生が「もう一つ」と言った。さっきまでざわついていたのに、その一言でまた空気が変わった。先生の目が、俺と蕭を順番に見た。
「蕭と蜂谷は、夏休みから中学二年生と一緒に練習してもらいます」
誰も何も言わなかった。
蕭が小さく息を吸う音がした。
俺は前を向いたまま、動かなかった。中二。一年上の先輩たちと、一緒にコートに立つ。それもこんな、入学して間もない俺たちに。静寂の中で俺の心臓だけが、やけにうるさく鳴っていた。




