タイトル未定2026/11/03 16:44
十二月初旬、ミラノから始まった研修旅行はウィーン、ベルリンを経て、末にはパリに到着していた。この後はエジンバラに向かい、引き返してロンドンから帰国のルートである。
パリで年越し。シャンゼリゼは大変な盛り上がりを見せていた。凱旋門はライトアップ、道々の木々にも電球が飾られ、美しい白い光を放っている。
飲食店の営業時間は大幅に引き伸ばされ、温かな湯気と香ばしい匂いを放っている。会話、どこからか歌、メロディ、笛も鳴る、交わす言葉の断片。
よくこんなにと思うほど人が多い、多過ぎる。音も匂いも光も人も、集まりすぎてはち切れそうだった。みんながみんな待っているソレがこのままやって来なかったなら、たぶんここから世界が綻びるのだと思う。
もちろん心配は要らない。本の中のサンタクロースのように、ソレはきちんとやってきた。
カウントダウンが始まる。フランス語でなんと言うのだろう。そんなことを思っている間に、今年は去年になっていた。
新年おめでとう! 試合中のスタジアムかと思うような歓声嬌声が巻き起こり、新しい年を抱きしめる。
隣にいた背の高い男が栞の頬にキスをした。帽子とコートのボアが邪魔をし、ほとんど毛に口づけたようなものだったかもしれない。このときばかりの無礼講なのだ。
当然、梓朗は顔色を変えず、男と拳をぶつけ合い笑い合いすらした。ニューイヤーの祝福を唱え。
栞は笑っていた。笑い過ぎていた。
破壊的な喧騒。梓朗の声どころか、自分の声すら聞こえない。今自分が言ったつもりになっている言葉は、本当に声になって表に出ただろうか? 先輩に、
「おめでとうございます!」
なにか返ってきた。聞こえない。
「今年もよろしくお願いしまーす!」
返った言葉はやはり聞こえない。また男が栞を捕えてキスをした。最初は黒髪、今度は銀色。旧知の友のように、皆が笑う。
観光客も多いらしい。ごちゃまぜの言葉が飛び交っていた。フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、日本語もここで。
「人気者だな」
聞こえた。そのはずで梓朗の顔は近かった。後ろを過ぎて行った一群に押されて前に出たのだ。その腕を支えて、栞は言う。
「私なんか今日すごくかわいいですか?」
「祝い事だからな。顔なんか見てないんだろ」
「じゃあ雰囲気がかわいいんですね。思わずキスしたくなっちゃうくらい」
誰でもいいんだって。梓朗らしいコメントも、ちゃんと聞こえた。カウントダウンが終わり、人波が動き出している。立ち止まっているのが厳しくなり、二人も歩き出した。
手を引かれながら、行き交ういくつもの頭の隙間に光の空を仰ぎ、歌うように栞は、
「なんか空気に酔ってきたー。楽しいですね! 来て良かったね。私も先輩にキスして良いですかっ?」
「いや」
「いやってなに。お祝いですよ! 来たる新しい年を歓迎してー、」
「オレがおまえにしようかな」
「えぇ? ホント? 私がかわいいから?」
「よく見えない顔とか雰囲気がか?」
「なんで疑問形? 往生際が悪いって言うんですよ、そういうの。うん。往生際」
「時代がかってんな」
「年越しの儀式だから重厚に、です」
革の匂いがした。手袋だ。左の頬にひんやりと特有の冷たさを感じる。そして右の頬には……、――目に近い位置だった。
「やったっ! 先輩を陥落しちゃった!」
「砦か、オレは。ちゃちい砦なことで」




