第9話 狂っているのは、どっちだ
安寧療養院の廊下は長い。消毒液の匂いが、隅々から滲み出している。
医者が病室の扉を押し、体を開いて道を空けた。
「氷室さん、どうぞ。」
病室は静かだ。窓辺に、若い男が静かに座っている。陽が青白い横顔に落ちる。ずいぶん痩せ、だぶだぶの病衣がハンガーに掛かっているみたいで、風が吹けば飛びそうだった。
足音がしても振り返らず、窓外の葉を落とした梧桐だけを見ている。
医者が低く説明する。
「患者は最近、あまり口を開きません。多くは黙って座っており、ときおり情緒が荒れます。我々の見解では、認知の障害が——」
「分かっている。」
氷室硯が遮った。
医者は察しがよく、頷いて出ていき、扉を静かに閉じた。
一室、死んだように静かだ。
氷室硯は二歩進み、口を開く。
「湊。」
窓辺の肩が、わずかに震える。
数秒後、ゆっくり振り返った。目は空ろで、灰を被ったガラス玉のようだ。だが氷室硯に落ちた瞬間、その灰に細い裂け目が入り、ごく淡い、生きた気配が漏れる。
「氷室の兄さん。」
声は嗄れて乾き、長く口を開いていなかったみたいだった。
氷室硯は椅子を引き、向かいへ座る。
「最近はどうだ。」
神楽湊は口角を引き、笑いとは言えない。
「毎日、薬を飲んで、訊かれて、再診。日が同じ。コピー機に詰まった紙みたいだ。」
目を上げ、氷室硯を見る。
「兄さんも同じ。来るたび、その一句だけ。」
そうだ、来るたび。
これが、氷室硯がこの椅子に座る三度目だった。前の二度も同じことを訊き、面会時間いっぱい座って帰り、何かの儀式を済ませるみたいだった。
当時の湊は相手にしなかった。世界中が自分を狂っているとするのに、見知らぬ男に構う理由があるか。
今日は違う。
今日は、この男が扉を入った一秒目から分かった——この人の目には憐れみがない。病人を点検する探りもない。あるのは一つだけだ。
確かめたい、という目だ。
氷室硯は臆せず応じた。
「俺は医者じゃない。言葉を探る必要もない。」
神楽湊は二秒見つめ、ふと訊く。
「姉さんが、来いと言ったんですか。」
「違う。」
答えが出た瞬間、少年の目の底の張り詰めた警戒が、目に見えて大きく緩む。背もたれへ凭れさえした。重い荷を下ろしたみたいだ。
病室が、再び静かになる。
氷室硯は彼の胸のアルバムを見る。
「ずっと、持っているのか。」
神楽湊は頷き、ためらいなくアルバムを開く。
一頁目は古い写真——十代の神楽檀が校門に立ち、派手に明るく笑い、片手を隣の少年の頭に載せている。少年は顔をしかめ、目尻が赤い。明らかに、泣いた直後だ。
氷室硯はこの写真を知っている。当時の神楽檀はまだ神楽を継いでおらず、商戦で冷たく硬く磨かれておらず、のちの近寄りがたい顔もなかった。
「中一の年です。」
湊の指先が写真の縁をそっと撫でる。動作は軽く、ほとんど敬虔だ。
「上級生に校門で金を要求されて、姉さんがちょうど保護者会に来ていた。二言なしで飛び込み、一人で三人を罵って顔を上げられなくした。」
「帰り道、泣きました。怖さじゃない。みっともなかった。」
「姉さんは頭を揉んで言いました。泣くことない。次に誰かが苛めたら、私の名前を出せ、と。」
顔を上げ、口調は不気味なほど平静だ。
「これが姉さんです。今の、じゃない。」
氷室硯の眸がわずかに沈み、乗らず、先を待つ。
「ここの全員が、私が病気だと言います。」
湊の声は安定している。
「毎日、同じことを考えます。いちばん近い人間の気性も習慣も目つきも、一夜で全部変わった。世界中が言う。変わっていない、お前の思い過ごしだ、と。」
「氷室の兄さん、訊きます。狂っているのは、どっちですか。」
問いは極限まで軽い。なのに一字一字が胸に落ちる。
氷室硯は遮らない。
湊は続け、声をとても低くする。幾日も幾夜も溜めた悔しさが、ようやく出口を見つけたみたいだ。
「以前は、湊って呼んでくれました。夜更かしを叱り、朝食を抜くのを叱り、スニーカーを散らかすのを叱る。夜中に教科書を学校へ置いてきても、忙しくても運転して届けて、届いたら頭をコツンと叩く。」
「高三の年、模試を大失敗して、屋上に隠れて帰れなかった。半個の街を探されて、見つかったとき、罵られると思いました。」
口角を引く。
「結果、上がってきて、先に焼きソーセージを一本くれた。腹が減ってるうちは怖がるな。天みたいなことも、腹がいっぱいなら半分になる、と。」
「禍を起こしても、まず庇って、それから扉を閉めて罵る。」
一瞬、止まり、喉仏が上下する。
「あとから、違った。フルネームで呼ぶようになった。神楽湊、と。丁寧で、遠くて、赤の他人を呼ぶみたいだ。」
氷室硯の目の底に、寒さが差す。
呼びかけの変化は、他人なら何でもない。血の繋がった至親のあいだで、一夜でこのわざとらしい疎遠が生まれること自体が、いちばんの異常だ。
「ほかは。」
ようやく追う。
神楽湊はアルバムを閉じ、指先が表紙を死ぬほど掴み、節が白い。
「目です。見る目が変わった。以前は怒っていても、目に憐れみがあった。今はない。」
目を上げ、氷室硯を真っすぐ見る。底に極限の痛みと、醒めた光がある。
「私を見る目が、足手まといを見る目だ。一日生きるたび、邪魔をするみたいだ。」
「もう一つ、誰にも言っていません。」
少年の声が、さらに低くなる。
「あの日、会社へ迎えに来て、どこかへ連れていくと言った。途中で電話を一本受けて、バックミラーで笑ったのが見えた——氷室の兄さん、姉さんはああは笑わない。笑うとき、目が明るい。あの人は、口だけが動く。」
病室が、完全に静かになる。
氷室硯は目の前の少年を見て、急に、はっきり見えた。
外は誰もが言う。神楽湊は精神が錯乱し、認知が狂っている、と。最初から最後まで、この十八歳の子に狂言は一句もない。
「偽物だ」とは叫ばない。激しく抗弁しない。細部を覚え、習慣を覚え、至親のあいだのいちばん細い温度を覚え——それを一条一条、人の前に置く。
狂人は、こんな話はできない。
そのとき、門外から医者の注意が、扉越しに鈍く入る。
「氷室さん、面会時間はまもなく終了です。」
氷室硯は立ち上がり、出ようとする。入口まで来たとき、後ろから湊の声がした。軽く、異常なほど硬い。
「氷室の兄さん。」
足が止まり、振り返らない。
「いつか姉さんに会ったら——本物の、姉さんに。」
声がわずかに震え、長く抑えた嗚咽を隠し、吐字だけは異常に醒めている。
「狂っていない、と伝えてください。」
「ずっと、戻るのを待っている、と。」
氷室硯は数秒、静かに立ち、低く応じた。
「いい。」
扉を押して病室を出る。扉が背でゆっくり閉じ、部屋の、息が詰まる重さを隔てる。
廊下は広く、冷たい。倉橋慎がすぐ迎える。
「社長、会社へ戻りますか。」
氷室硯は廊下の端の小さな窓を見て、ふと口を開いた。
「一件、調べろ。」
「はい。」
声は淡い。氷を焼き入れたみたいだ。
「この一ヶ月、神楽檀の傍で起きたこと、接触した人間を全部だ。起床も好みも習慣も、一言一行——全部。」
倉橋が一凛する。
「承知しました。」
氷室硯は閉じた病室の扉を、最後に一目見た。
弟が言う。姉は入れ替わった。宿敵が言う。あの人間は、戻ってきた。
二つの声が同じことを指しているなら、今、神楽の社長室に座っている人間は——いったい誰だ。




