第8話 儲かりゃいいだろ
取締役会が終わったのは、昼近くだった。
香月潤はハイヒールで会議室を出る。数人の取締役が後ろに付き、表面だけの笑みを顔に掛ける。
「神楽社長、昼はご一緒に。」
「結構です。午後も予定が。」
淡く断り、取締役たちも無理強いせず、それぞれ去る。
エレベーターの扉が閉まるまで、香月潤はゆっくり息を吐き、掌を見た——いつの間にか、薄い汗が滲んでいる。
今日の取締役会は、想像よりずっと手強い。
老いぼれどもは一人ひとり利口で、口では神楽社長と呼び、目は全部、値踏みだ。
神楽檀の顔を被っていなければ、下に座って話を聞くことすらしない。
そう思うと、また笑わずにいられない。
幸いだ。幸い、今の自分は神楽檀だ。
執務室で、秘書が昼食を運び、ついでに報告する。
「神楽社長、午後二時に顧客がいらっしゃいます。それと氷室から、南区の調印日時を確定してほしいと。」
また南区だ。
香月潤は眉を寄せ、譲渡契約を傍へ放った。
「とりあえず置け。」
「はい。」
秘書が下がったあと、ようやく携帯を取り、ブラウザを開き、四文字を入れる。南区プロジェクト。
画面が資料の山を吐く。頁を繰る。新エネルギー、産業チェーン、長期布陣、行政の付帯……画面いっぱい、分からず、知る気もない名詞だ。
見るほど、眉が深くなる。
「神楽檀、頭おかしいんじゃない?」
ノートをぱたりと閉じる。
「こんなに複雑にして。儲かりゃいいだろ。」
あとにする、と決めた。契約は手元にある。一日延ばせば、氷室硯は一日待たされる——待たせるのも、悪くない。
同じ時刻、戦略部。
七瀬星蘭は机の前に座り、机には二点。昨夜の通話履歴のスクリーンショットと、今朝の取締役会の議事録。
万年筆を取り、付箋に二行、書く。
昨夜——研究開発を戻せ、持株を戻せ、原稿は全部残せ。
今日——取締役会で否決、否決、全部否決。
二行は、同じ顔、同じ身分から出た。間隔は十五時間に満たず、方向は完全に逆だ。
紙切れを長く見つめ、昨夜の電話の最後の台詞を思い出す。「誰にも言うな。この顔を被って会いに来る人間にも。」
この顔を被った人間。
七文字を、一晩中噛み、考えるほど背が冷える。
付箋をゆっくり折り、引き出しのいちばん奥のフォルダの底へ押し、パソコンを開いて暗号文書を新規作成し、最初の一行を打つ。
【差異記録・第一回。】
打ち終え、背もたれに凭れ、窓外の車列を見る。ふと、四年前の新卒採用を思い出した。
あの日、神楽檀は彼に一つ訊いた。星蘭、戦略をやる人間にいちばん必要な質は何か。
彼は「眼」と答えた。
神楽檀は首を横に振った。記憶だ、と言った。会社の一つ一つの決定の出所を覚えていれば、逸れたとき、どこへ戻るか分かる、と。
四年。今になって、その台詞の本当の重さが分かる。
その「出所」を、一条一条、全部記す。真相が水面に出る日まで。
それを終え、窓辺へ歩き、下の人混みを見て、ふと低く言った。
「檀さん、教えてくれたことは、全部覚えています。」
「だから、あまり待たせないでください。」
*
氷室グループ、最上階の執務室。
倉橋慎が調査資料の束を氷室硯の机へ置く。
「社長、ご指示どおり、最近一ヶ月の神楽の公開決裁を、全部洗い直しました。」
氷室硯はファイルを開く。
一頁目、研究開発予算を六十パーセント削減。
二頁目、従業員持株制度を停止。
三頁目、長期案件を三つ縮小、子会社二社の持分を売却公示。
見るほど、眉が深くなる。
神楽檀がやりそうなことではない。少なくとも、彼の知る神楽檀ではない。
あの女がいちばん得意なのは、今日の金で三年後の利益を買うことだ。いちばん嫌うのは、鶏を殺して卵を取ることだ。
これらの決裁は、どれも目の前のキャッシュしか見ていない人間の手つきだ——先が見えず、焦り、貪欲。
「もう一件。」
倉橋がまたファイルを渡し、声を落とす。
「前回ご指示の安寧療養院、結果が出ました。」
氷室硯は顔を上げる。
「診断は急性ストレス障害。被害妄想、同一性の障害を伴う。」
「医師の記録は。」
倉橋がカルテを渡す。氷室硯は開き、一頁目が経過記録だ。
【患者は繰り返し強調する。「今の姉は、姉じゃない。」】
【保護者の面会を拒否し、何度も情緒を失う。】
【同じ台詞を繰り返す。「姉を隠した。」】
頁を繰る手が、止まる。
【「今の姉は、姉じゃない。」】
【「姉を隠した。」】
二行を、三度、繰り返して見る。
十八歳の少年が、全員に狂ったと認定されているときに、二つの「狂言」を言い張っている。
その二つの「狂言」は、雲闕の個室で見たもの、南区譲渡契約の署名、今日の会議室の見知らぬ「神楽社長」と、寸分違わず噛み合う。
倉橋が低く言う。
「医師の見解では、姉の性格が急変したことで重い認知の障害が出た、と。ご家族が最終的にサインし、入院に同意しています。」
執務室が静かになる。氷室硯は長く、何も言わない。
他人が見るのは、精神病患者の支離滅裂だ。彼が思い浮かべるのは、あの夜の個室で見知らぬようで見慣れた女、握りしめた拳、今日の会議室でまったく違う商判断だ。
十八歳の少年が言う。姉は、入れ替わった。
彼が掘った証拠は、どれも同じ、荒唐な方角へ寄っていく。
カルテを、ふと閉じた。
「手配しろ。」
倉橋が顔を上げる。
「どちらへ。」
氷室硯は立ち上がり、椅子の背のスーツを取り、声はとても平静だ。
「安寧療養院だ。」
*
午後三時、城北、安寧療養院。
長い廊下に消毒液の匂いが満ち、鼻を突き、冷たい。
二階の端の病室で、若い男が窓辺に座っている。
だぶだぶの病衣を着て、古くなったアルバムを胸に固く抱えている。陽が青白い横顔に落ち、透き通るほど静かに見える。
介護が歩み寄り、声を柔らげる。
「湊、今日は外で陽に当たりますか。」
若い男は首を横に振り、俯いたまま、指で写真をそっと撫でる。
写真では、十八、九の少女が校門に立ち、派手に明るく笑い、片手で彼の髪を掻き乱している。
当時の彼は髪が短く、泣き顔で、目尻が赤い。
写真を見つめ、小さく呟く。
「姉さん……みんな、生きてるって言う。」
「でも分かる。あれは、姉さんじゃない。」
介護は聞き取れない。
「何て。」
神楽湊は顔を上げた。目は空洞で、枯れた井戸のようだ。だが井戸の底に、異常なほど硬い光が沈んでいる。
「言ったのは、」
一字一句。
「姉さんが戻るのを、待つ。」
介護は息をつき、身を翻して出ていく。その台詞を、この一ヶ月、百回は聞いている。
医者は言った。被害妄想の典型症状で、家族がサインして確認済みだ、と。
誰も、真に受けない。
午後三時二十分、黒いベントレーが療養院の入口へゆっくり停まる。
氷室硯は車の扉を押し、灰白色の建物を見上げた。
同時に、二階の病室の窓辺で、神楽湊が何かを感じ取ったみたいに、ゆっくり首を回し、下を見た。




