第7話 彼は本物を識る
「神楽社長。」
氷室硯は手の契約を渡し、簡潔だった。
「サインを。」
香月潤は契約を見下ろす。一頁目に太い黒字——『南区プロジェクト一括譲渡契約』。
呼吸が、ごくわずかに止まった。
いつ、南区を氷室へ譲ると約束した。
氷室硯の目は、ずっと彼女の顔に留まっている。動かない。反応を待っているみたいだ。
香月潤は契約をゆっくり繰る。一頁、二頁。後ろへ行くほど、眉が深くなる。
普通の協業ではない。一括譲渡だ——神楽が降り、氷室が受け、神楽が三年、南区へ突っ込んだ資源も人脈も行政との関係も、丸ごと渡すに等しい。
神楽檀は頭がおかしいのか。こんなに稼げる案件を、なぜ譲る。
もちろん知らない。この契約は昨夜の「神楽檀」が個室で口にした値段で、携帯一台と、一つの問いを買うための代価だ。
もっと知らない。向かいの男が待っているのは、契約を開いたこの瞬間の表情だ。
界隈で神楽と氷室の因縁を知らない者はいない。南区の土地は、因縁のいちばん深い一筆だ。
三年前、南区の再開発計画が出た直後、神楽檀がいち早く新エネルギー産業の匂いを嗅ぎ、チームを連れて二ヶ月徹夜で全体案を作った。
氷室硯が途中から入り、両家はその土地で三年、争った——値を吊り、入札を横取りし、付帯を奪い、刃と刃が血を見た。最後に勝ったのは神楽檀で、氷室硯は二億を失った。
界隈は、氷室硯が負けを飲み込めていないと言う。
氷室硯自身だけが知っている。調印の日、神楽檀は祝勝の宴で、ホールの半ば越しに杯を上げた。目は澄んで明るく、勝者の誇示と、相手への敬意が同時に乗っていた。
そのとき思った。この女は、一つの案件で覚えておく価値がある、と。
今、譲渡契約を持っているこの人間は、頁を繰る目に貪欲な計算しかない。この荷を転売したらいくらになるか、測っているみたいだ。
しばらして、香月潤は契約を閉じ、表情を平静に戻す。
「氷室社長、この件は、もう少し考えさせてください。」
氷室硯は乗らず、淡く一つ訊いた。
「何を考える。」
香月潤が一拍、止まる。何を考えるべきか、実は分からない。流れで続ける。
「協業の細部です。」
「昨夜、お前ははっきり言った。」
氷室硯は彼女を見る。
香月潤の胸が、ぐっと跳ねた。
昨夜? 自分が約束した? 昨夜は昏倒したはずでは——あの空白の記憶は、まさか……
情緒を無理に押さえる。
「昨夜は体調が悪くて、いろいろ、はっきり覚えていません。」
氷室硯の眸が、わずかに動く。
昨夜の人間は高熱を出し、劇痛を忍び、言葉は一滴も漏らさず、駆け引きまで綺麗に切れ味があった。目の前の人間は、「覚えていない」で説明を始める。
暴かない。ただ頷く。
「理解できる。」
空気が再び静かになる。香月潤が切り上げの口実を探していると、氷室硯がまた口を開いた。
「覚えているか。南区を、なぜ始めた。」
香月潤は固まった。
知るわけがない。稼げる案件だということ以外、何も知らない。契約に目を落とし、わざとゆっくり頁を繰り、時間を稼ぐ。
「もちろん。」
氷室硯は乗らず、ただ見続け、先を待った。
二秒黙り、いちばん外れにくい答えを選ぶ。
「市場の機会です。」
四文字が出た瞬間、氷室硯の目の底に残っていた何かが、ゆっくり沈んでいった。
違う。完全に、違う。
本物の神楽檀が南区を始めたのは、金のためではなかった。
三年前の入札説明で、彼は壇下にいた。
彼女は投影の前で言った。神楽は新エネルギーをやる。材料も電池も回収も揃った。足りないのは南区で、産業チェーンを一本に溶接することだ。利益はついでだ。欲しいのは十年後、この業界で神楽を避けて通れない位置だ、と。
利益は、ついで。
散会のあと、駐車場で彼女を止め、最後の一つを訊いた。「神楽さん、十年後、誰も神楽を避けられないと、そこまで言い切れるのか。」
車の扉を開け、振り返る。初夏の風が髪を上げ、あの目は驚くほど明るかった。
「氷室硯、十年後のこと、誰が保証できる。」
彼女は言った。
「でも道は一寸ずつ直し、穴は一つずつ埋める。他人が道を直そうと思い出したとき——」
「私は、もう終点にいる。」
あの場面を、三年、覚えている。
目の前の人間の第一反応は、市場と収益だけだ。
氷室硯の表情は相変わらず平静で、温和とすら言える。
「そうか。」
評価しない。反論しない。注意もしない。
その四文字が、香月潤の胸をどんどん不安にする。氷室硯は今日、奇妙なことばかり訊く。試験みたいだ。なのに正解が分からず、問題文すら読めない。
そのとき、秘書が足早に来る。
「神楽社長、取締役会がお待ちです。」
藁を掴むみたいだった。
「氷室社長、契約は持ち帰って見直します。改めて返事します。」
言い終えると、ほとんど留まらず、会議室へ身を翻す。足取りは沈み、背は体面のまま。自分だけが知っている。背には、もう薄い汗が浮いている。
氷室硯は引き止めず、その場に立ち、彼女が去るのを見た。
会議室の扉が背で閉じた瞬間、香月潤は扉板に貼りつき、目を閉じて三秒、緩めた。
さっきの十分は、人生で経験したどの交渉より疲れた。氷室硯の問いはどれも世間話のようで、どれも下に、見えない雷が埋まっている。
南区は、なぜ始まった。
携帯を開き、その問いを急いで記し、「昨夜、何を約束したか」も記す——この二つの穴は、帰って徹夜で埋めなければいけない。
今日から、神楽檀が扱った案件も決裁も公開の発言も、全部引っ張り出し、一条一条、暗記する。
次は、あってはならない。
表情を整え、扉を押して会議室へ入り、再び一滴も漏らさない「神楽社長」に戻る。
倉橋慎が寄って来て、低く訊く。
「氷室社長、この契約は、まだサインしますか。」
氷室硯は視線を、ゆっくり戻した。
「急がない。」
手を伸ばし、契約を取り戻す。もう片方の手はスーツの生地越しに、内ポケットへ軽く触れる——中に、あの新品の携帯がある。
会議室の閉じた扉を見て、声はとても軽い。
「もう少し、待つ。」
倉橋はさらに惑う。
「何を、ですか。」
氷室硯は答えなかった。
自分でも、うまく言えない。ただ、ますます確かになっていく——昨夜の個室で冷静で果断で、指先が震えるまで痛みながら取引した人間と、今日の会議室の人間は、同じ人間ではない。
南区をなぜ始めたか答えられない人間が、神楽檀であるはずがない。
たとえ神楽檀の顔を被り、神楽檀の声を使い、神楽檀の執務室に座っていても。
では彼女が神楽檀でないなら、昨夜の人間は、誰だ。
窓外、鳥が一羽、ガラスの壁を掠める。氷室硯は視線を引き、身を翻してエレベーターへ向かった。
証拠が要る。証拠を掴むまで、誰も驚かせない。




