第6話 取締役会、綻びだらけ
九時三十分、神楽グループの取締役会は定刻どおり始まった。
長い机の両側に、十数人の取締役が順に着席する。
秘書が資料を配り、紙を繰る音だけが会議室にさらさらと響き、それ以外は、押し潰されそうなほど静かだった。
香月潤は主位に座っている。
初めてこの席に座ったときは、掌が汗でいっぱいだった。ファイルを繰る力すら、加減できなかった。
一ヶ月が過ぎ、もう慣れ、楽しみにすらなっている——全員が自分の口を待ち、顔色を窺う感覚を。
「第一議題、東日本サプライチェーン調整案。」
「可決。」
「第二、新工場拡張計画。」
「可決。」
手続きは速く、速すぎてほぼ形だけだ。秘書が顔を上げ、第三項を読むまで。
「研究開発センター予算申請。」
研究開発部長の野村勲が立ち上がり、投影を開く。五十前後の男で、髪の半分は白い。シャツの袖口は擦れて古い。レーザーポインタだけは、しっかりと握っている。
「各位、スマート新エネルギー材料の研究開発再開を申請します。実験は七十三パーセントまで進み、中核データは全部通っています。あと八ヶ月投入すれば——」
「もういい。」
香月潤が手を上げた。
会議室が、一瞬で静まる。野村はレーザーポインタを握ったまま、その場で固まった。
「神楽社長?」
香月潤は資料を閉じ、天気を話すみたいに平静だ。
「続けても、金を焼くだけです。会社は慈善団体じゃない。」
野村の顔色が変わる。
「ですが社長、これは二年前、あなたがご自身で決裁された案件です。立ち上げの会で、誰が止まっても、この件は止めるな、と——」
「以前は以前。」
香月潤は直接遮る。
「今は、キャッシュフローがいちばん大事だ。」
取締役たちが顔を見合わせ、誰も口を開かない。
野村は二秒黙って、それでも口を開いた。
「この件は国の補助金を申請済みで、書類は一次審査を通っています。今、止めれば、これまでの二億以上の投入が全部沈むだけでなく、補助金資格が消え、三年、神楽は同類の申請ができなくなります。」
香月潤は眉を寄せた。
「それが、どうした。」
一言が出た瞬間、会議室は完全に静まった。
数人の取締役が同時に顔を上げる。俯いていた財務部長まで、目を上げた。
末席の伊達取締役が、ゆっくり眉を寄せる。
思い出す。三年前、この同じ会議室で、神楽檀はこの研究開発のために、七人の取締役と机を叩いて争った。
あの日、彼女は言った。「今日、削った研究開発費の一分は、明日、跪いて道を買う金になる。」一言で、部屋いっぱいの古狸を黙らせた。
三年経ち、案件は同じ案件だ。主位に座る人間が出す言葉は、南北に食いちがう。
「神楽社長。」
伊達は言葉を選ぶ。
「技術線の意見を、もう一度聞いては。補助金資格が一度消えれば、三年後に取り直すのは難しい。」
香月潤は一目くれた。熱もなく、冷たさもない。
「伊達さん、今、会社の舵を握っているのは誰ですか。」
一言で、全員の口を塞いだ。
伊達は口を開き、結局何も言わず、心の中で今日の会議の時刻を、黙って記した。
野村は呆けた。
以前の神楽檀は、こんな台詞を言わない。
あの若い社長がいちばん得意なのは長期の勘定だ——今日の金で三年後の利益を買い、三年の布陣で十年の堀を換える。
「それが、どうした」の四文字は、神楽が誇りにしてきた戦略の忍耐を、衆目の前でゴミ箱へ捨てたに等しい。
七瀬星蘭は最後列に座り、一言も発しない。ただ静かに見て、指先がノートを軽く叩く。
香月潤は、会議室の気圧の変化にまったく気づかない。
続ける。
「未来の収益は予測にすぎない。今、出ていく金が本物だ。私の意見は——終了。」
秘書が低く注意する。
「社長、定款では取締役会の議決が必要です。」
「なら、議決を。」
結果はすぐ出た。再開反対五票、再開賛成四票、棄権一。議案は通らない。
香月潤の顔色は、沈んだ。
議決には勝った。だが四人も賛成に投じるとは、思っていなかった。
以前、神楽檀が会議を開けば、こんな局面は一度もなかった。この老いぼれどもは、表では恭しく、裏では腹の中が別だ。
秘書の声が続く。
「第四、従業員持株制度——」
人事責任者が立ち上がった瞬間、香月潤は淡く口を開いた。
「否。」
人事は明らかに固まった。
「社長、この案は一年かけて検証し、中核十七人、今年すでに三人へヘッドハンターから声がかかっています。インセンティブがまた落ちなければ——」
「声がかかったなら、行けばいい。」
香月潤はファイルを繰り、顔も上げない。
「神楽は、値を付ける人間は養わない。」
人事の顔が青くなったり白くなったりする。
「ですが社長、この案の方向はもともとあなたがお決めになったものです。人材は神楽で唯一、削ってはいけない、と——」
「私が、言っている。」
香月潤は目を上げ、一字ずつ区切った。
「否。」
会議室の空気が、一瞬で冷えた。人事は口を開き、結局椅子へ戻り、顔が灰色になる。
そのとき、扉が軽くノックされた。
秘書が足早に行き、門外で低く言葉を交わし、表情が変わり、急ぎ戻って香月潤の傍で身を屈める。
「神楽社長、氷室グループの氷室社長がいらっしゃいました。南区プロジェクトの調印に来た、と。」
空気が、一瞬、静まる。
数人の取締役が同時に意外な顔をし、すでに視線を交換し始めている。南区? 神楽と氷室が三年争い、周知の南区か。
香月潤が万年筆を握る手が、わずかに締まる。
南区プロジェクトなど知らない。氷室硯と調印の約束をした覚えもない。だがこれだけの目が自分を見ている。主位の人間に、「知らない」と言う資格はない。
胸の不安を押さえ、淡く言った。
「氷室社長を応接へ。すぐ行く。」
秘書は頷いて去る。
香月潤は立ち上がり、一回り見渡した。
「十分、休憩。」
言い終えると、先に会議室を出る。ハイヒールの音が廊下に響き、急がず、緩まず、体面は十分だ。
自分だけが知っている。背は、もう静かに張り詰めている——氷室硯は、理由もなく現れない。手の契約と、「南区の調印に来た」の一句は、一字も受け止められない。
廊下の端、男が逆光に立っている。長い影が、窓外の天光で冷たく白い縁を取る。
足音を聞き、彼は振り返った。




