第5話 食い違う綻び
朝八時四十分、黒いマイバッハが神楽グループのビル下へ静かに停まる。
運転手が素早く後席へ回り、扉を開けた。
「神楽社長、着きました。」
香月潤は七センチのピンヒールで降りる。かかとが大理石に落ち、乾いた音がする。何かの宣告みたいだった。
ホールで、受付が最初に立ち上がる。
「神楽社長、おはようございます。」
続いて警備、総務、行き交う社員が足を止め、挨拶が次々重なる。
「神楽社長。」
「おはようございます。」
「神楽社長。」
視線が次々、彼女を追う——恭しく、畏れ、隠しきれない崇拝。
エレベーターの前では、誰かが先に階を押し、身を屈めて先に乗るように促す。
香月潤の唇の端が、ほとんど上がりかけた。顔を張り、淡く頷くだけにする。胸の中は、蜜を瓶ごと流し込んだみたいだった。
以前、神楽へ神楽檀を訪ねるたび、一階で受付から始めなければならなかった。
受付は丁寧に身分証を求め、秘書が確認し、予約し、層ごとに通す。
ホールで三十分待つこともあった。行き交うあれだけの人のうち、余分に一目くれる者は一人もいない。
あるときは四十分待った。神楽檀が会議を終えて急いで降りて迎えに来ると、ホール中の視線がさっと集まる。
その視線が神楽檀に落ちるときは敬意で、自分を掠めるときはついでだった。
あの味を覚えている。隅に忘れられた荷物みたいに、持ち主が通るときだけ、余分に一目される。
今は、棟全体の視線が自分のものだ。
神楽檀が二十年以上かけて打ち取った山河も、稼いだ体面も、全部、自分のものだ。
エレベーターの扉がゆっくり閉じ、外の世界を遮断する。
周りに誰もいなくなってから、手を上げ、自分の顔をそっと撫でた。
鏡面の箱に、冷艶で精緻で、誰もが信じられる顔が映る。
鏡の中の「神楽檀」を、長く見て、ふと低く笑った。
「神楽檀。」
「二十年以上、必死だった。」
「今は、全部、私のもの。」
エレベーターが「チン」と最上階に着く。笑みをしまい、歩いて出る。背は真っ直ぐだ。
秘書の芹沢すみれはタブレットを抱えて入口で待ち、彼女の歩調にすぐ並んだ。
「神楽社長、取締役会は九時半からです。それと、本日の議題に、二項が再提出されています。」
香月潤は執務室へ歩きながら、口だけ動かす。
「何の議題。」
「研究開発センターの予算です。」
すみれがタブレットを開く。
「センターが資料を補い、財務が再審査した結果、取締役会へ再提出できる条件を満たしています。」
足が一拍、止まる。
「止めたはずでは。」
「手続き上、補足資料がコンプライアンスを通れば、再上程が必要です。」
すみれが一拍置き、続ける。
「従業員持株制度も、報酬委員会が補足算定を終え、議題に戻っています。」
香月潤の眉が、ゆっくり寄る。
はっきり覚えている。この二件は、この一ヶ月、自分が押さえた。研究開発は金を焼く。一年に何十億を突っ込んでも音がしない。持株は金を分ける。株を労働者にくれてやる——なぜ他人を得させる。
それが、また戻ってきた。
「取締役会で否決しろ。」
冷たく口を開く。
「承知しました。」
すみれは頷き、表情は何も変わらない。
執務室に入り、すみれが下がろうとして、また足を止めた。
「もう一件。七瀬部長がいらっしゃいました。取締役会の資料を、直接お渡ししたいそうです。」
香月潤は社長椅子に座る。
「通せ。」
数秒後、扉が開く。七瀬星蘭は濃いグレーのスーツで、取締役会の資料を抱えて入る。姿勢は真っ直ぐで、表情は平時と何も変わらない。
「神楽社長。」
「資料はそこへ。」
香月潤は顔も上げない。
星蘭はファイルを机へ置き、視線だけを、ごく速く彼女の顔へ走らせた。
昨夜の電話の人間は冷静で果断、一句一句が急所を踏み、最後の「誰にも言うな。この顔を被って来る人間にも」を、一晩中、裏返して考えた。
目の前の人間は、笑みをよく隠している。だが目の興奮は隠せない——ようやくファーストクラスに座った人間の目だ。
何も言わず、資料を開く。
「研究開発予算と持株制度、二項とも第三項です。」
「ええ、取締役会で否決。」
星蘭が頁を繰る手が、ごくわずかに止まる。
昨夜、電話の人間は明らかに「再提出して、公開で議論」と言った。今日、この人間は「否決」と言う。
前後が、南北に食いちがう。
追及しない。ただ平静に頷く。
「承知しました。」
香月潤が、ふと目を上げる。
「異議はないの。」
「取締役会の議題は、最後は社長が決めるものです。」
星蘭は笑った。一句が、一滴も漏らさない。
香月潤は満足げに頷く。やはり時勢を知る。賢い人間が好きだ。
「準備して。」
「はい。」
星蘭は資料を持ち、身を翻して去る。扉が背で閉まるまで、顔の笑みを、少しずつ消した。
自分の執務室へは戻らず、廊下の端の窓辺へ歩き、携帯を出す。画面は昨夜の通話履歴のまま——最上段【神楽社長】、通話七分四十二秒、着信番号は見知らぬもの。
その記録を長く見つめ、最終的に画面を閉じ、何も言わなかった。
廊下が静かになってから、すみれがいつものようにコーヒーを運んで来る。
アメリカーノ、砂糖なし。神楽檀が何年も崩さない習慣だ。
香月潤は口をつけ、すぐ眉を寄せた。苦い。飲めない。以前の定番はキャラメルマキアート、シロップ倍だった。
「次から、砂糖を足して。」
口任せに命じる。
すみれの足が一拍止まり、振り返る。
「神楽社長、アメリカーノに砂糖、ですか。」
「いけない?」
「いえ。」
すみれは笑い、表情はいつもどおり。
「四年お仕えして、初めて伺いました。」
扉が閉まったあと、香月潤はその苦いコーヒーを気にも留めず、もう一口含み、砂糖を袋ごと注いだ。
それから、ゆったりと広い社長椅子へ凭れる。
椅子を軽く回し、全面ガラスから街全体を見下ろす。
朝の光が入り、机の「代表取締役社長」の箔押しを照らして、目が眩む。
手を伸ばし、机を一寸ずつ撫でる。ペン立てから文鎮まで、失って戻った宝を撫でるみたいだ。
「いい。」
独り言が洩れる。
「これから、誰も私を見下せない。」
そのとき、胸にごく細い刺痛が走った。針で軽く突かれたみたいに、すぐ消える。
眉を寄せ、コーヒーを一口飲んで、昨夜の薬と換面の蠱の副作用だと片付ける。
「最近、疲れすぎた。」




