第4話 香月潤、目覚める
「神楽社長?」
耳元に、見知らぬ声。職業的な慎重さが乗っている。
香月潤は、ゆっくり目を開けた。
頭上のクリスタル照明が眩しく、反射で目を細める。二秒して、自分が個室奥のソファベッドに寝ていると気づく。手の甲には、点滴跡のテープが貼ってある。
医者は薬箱を片付け、看護師は俯いて指示箋を整えている。
全面ガラスの前、氷室硯は背を向け、アシスタントに低く何かを命じている。肩の線は真っ直ぐで、横顔一つが他人を寄せ付けない。
香月潤の胸が、ぐっと跳ねた。
記憶を、少しずつ手繰り寄せる。
クラブ。個室。用量を計算して自分に薬を盛った——「制御を失う」ちょうどいい量で、意識までは奪わない精度。
それから氷室硯が扉を押し、何度も稽古した姿勢で跨がり、スカートの裾を彼の膝の両側に積んだ。
彼の一目は極限まで冷たい。だが、耐えていた。
その目を知っている。欲と理性の間で引き千切られる男の目だ。もう少しで成功すると思った。
それから?
薬が湧き始めたのを覚え、氷室硯が腰を掴んで自分を引き剥がしたのを覚え、それから——
真っ白だ。
頭から、誰かに一段を掘り出されたみたいに、途中は綺麗に何も残っていない。
「神楽社長。」
医者が指示箋を渡す。
「体内の薬量は低くありません。抑制剤は打ちましたが、薬は繰り返します。今夜は病院で経過を見たほうがいい。」
胸の狼狽を押さえ、神楽檀のいつもの様子を真似て、淡く頷いた。
「分かった。」
声が出た瞬間、先に息を吐く。まだ、落ち着いている。綻びていない。
医者は荷物を整えて去ろうとし、出口でまた振り返って念を押した。
「二十四時間は飲酒しないでください。激しい運動も、情緒の波も。でないと薬が再発しやすい。」
「ええ。」
扉が再び閉まる。個室には二人だけ。
香月潤は顔を上げ、視線を氷室硯へ落とす。心臓が、勝手に速くなる。
この男が好きだ。何年も好きだ。
大学で初めて氷室硯を見た時から。
あの年、彼は経営学部の伝説だった。奨学金の口頭試問で、一人で教授三人を論破した。壇下に何百人いても、彼女の目には彼しかいなかった。
だが彼の視線は、一度も彼女の上に止まらない——人混みの中央に立ち、目にあるのは討論席の向かい、同じように眩しい神楽檀だけだった。
以前は、人混みの最後に立って、隠れて見るしかなかった。
今は違う。今は、公然と彼の前に立てる。神楽檀の顔で、神楽檀の身分で。
そう思うと、唇の端がほとんど抑えきれず、無理に押し下げた。
笑ってはいけない。神楽檀は、ああは笑わない。
ゆっくり立ち上がり、落ち着いているふりで裾を整え、気づかれないように耳の脇の髪を払う。
「今夜は……氷室社長に、お手数をかけました。」
口に出した瞬間、後悔した。
丁寧すぎる。神楽檀と氷室硯は五年争って、「お手数」など一度も言っていない。
案の定、氷室硯は淡く一目くれただけだ。漆黒の眸に情緒はなく、どうでもいい取引先を見る目だ。
「大したことではない。」
一拍、置く。
「運転手は下にいる。早く戻って休め。」
言い終えると、振り返らずに出口へ歩き、留まる気配すらない。
香月潤は反射で一歩追った。
「氷室社長。」
氷室硯は足を止める。振り返らない。
「まだあるか。」
口を開いた。
実は何も考えていない。残したい、一秒でも、という本能だけだ。
だが理性がすぐ衝動を押さえる——神楽檀はこうしない。神楽檀は、誰も引き止めない。
「……何でもない。」
氷室硯はもう留まらず、個室の扉を開けて出ていく。革靴が絨毯を踏む音が遠くなり、やがて消えた。
香月潤はゆっくり息を吐き、バッグを掴んで、足早にクラブを出た。
黒い社用車が、駐車場をゆっくり抜ける。
後席に座った第一の仕事は、バッグを開けることだった。
携帯。ある。
財布。ある。
身分証、カード、車の鍵、化粧ポーチ……一つ一つ確認する。全部ある。口紅の位置さえ、変わっていない。
なのに、胸が一つ、空いている気がする。
眠っているあいだに、誰かが何か、そっと持ち去ったみたいだ。
だが何を、どうしても思い出せない。
あの空白の記憶で、何が起きた。何を言い、何をした。なぜ氷室硯は、最後まで個室に残った。
必死に思い出し、意識をその空白へ探らせる——入った先は、骨まで冷える黒だった。
忘れではない。忘れなら、ぼんやりした輪郭が残る。あの空白は綺麗すぎて怖い。誰かが刃で、その時間を頭から真っ直ぐ切り取ったみたいだ。
切口の縁に、奇妙な感触が残っている。
冷たい、みたいだ。痛み、みたいでもある。
運転手がバックミラーで一目くれた。
「神楽社長、会社ですか。ご自宅ですか。」
香月潤はバッグのチャックをゆっくり閉じ、胸の不安を押さえた。
「家。」
車が夜へ入る。背もたれに凭れ、窓外の流れるネオンを見て、何度も自分に言い聞かせる。大丈夫。何か言ったとしても、神楽檀の顔、神楽檀の声だ。間違いは出ない。
だがその不安は、肉に刺さった細い棘みたいに、どうしても抜けない。
*
一方、個室の中。
アシスタントの倉橋慎が現場を片付け、腰を屈めた拍子に、ソファの隙間から新品の携帯を取り出した。
「氷室社長、ここにまだ携帯が。」
氷室硯は出口へ向かう足を止めた。
振り返って一目見る——さっき、あの人間が用意しろと言い張った新品だ。起動済み、SIM入り、画面は綺麗で、発信した番号が一つだけある。
二秒、黙って歩き寄り、携帯を受け取った。
電源を入れて中を漁らない。誰にも渡さない。掌に、静かに握る。機体にまだ温度が残っている。鄭重に託された物みたいだった。
倉橋が訊く。
「神楽へ届けますか。」
氷室硯の目が携帯に落ち、しばらくして、淡く口を開いた。
「先に、俺が預かる。」
倉橋は少し惑う。
「中に、大事な資料でも。」
氷室硯は答えなかった。身を翻し、車窓を高速で退く灯を見る。声は、ほとんど聞こえないほど低い。
「誰か、戻ってきたらしい。」
倉橋はぽかんとする。
「社長、今、何と。」
氷室硯は視線を引き、表情をいつもの通りに戻す。さっきの一句は、夜風の錯覚だったみたいだ。
「何でもない。会社へ。」
黒い車がホテルをゆっくり出る。後席に凭れ、掌を開き、その携帯を見る。
握りしめた拳。親指が掌を死ぬほど押さえていた、あの形。
見たことがある。何年も前、交渉卓で。向かいの若い女が七人の取締役に交代で詰められ、顔色は紙のように白い。なのに手は始終、あの形で、一寸も退かなかった。
神楽がいちばん苦しかった年だ。彼女は二十になったばかりで、七人の叔父たちに会議室へ囲まれ、経営権を出せと詰められた。彼は出資側の代表として末席に座り、最初から最後まで見ていた。
まる三時間、水一滴取らず、七人を一条一条、完膚なきまで論破した。
散会のとき、立ち上がり、全員へ一礼して言った。皆様、神楽は神楽の姓です。これからも、神楽以外の姓にはなりません、と。
あの日帰り、彼は「神楽檀」の三文字を、重点注視リストの一行目に書いた。
そのあと、一度も下ろしていない。
五年、痛みをそう忍ぶ人間を、一人しか見ていない。




