第3話 氷室硯の試し
神楽檀はソファの肘掛けを支え、ゆっくり体を起こした。
二十一時三十八分。
目覚めてから、三十八分。この身体の薬は医者が残した抑制剤に押さえられている。蠱毒はまだ暗がりで湧き、潮が一波一波、岸へ打ちつけるみたいだった。
貴重な時間を、ここでもう浪費したくない。
「氷室社長。」
彼を見る。
「さっきの問いには、答えられません。」
「答えられないのか。答えたくないのか。」
氷室硯は二歩外に立ち、目は静かだ。
「違いますか。」
「違う。」
淡く言う。
「答えられないなら、隠しごとがある。答えたくないなら、まだ俺を警戒している。」
神楽檀は口角を引いた。
「氷室社長はいつの間に、読解に転職したんですか。」
「最初からできる。」
氷室硯は彼女を見る。
「お前が、出題する機会をくれなかっただけだ。」
言葉は軽い。口から零れたみたいだ。なのに神楽檀は、胸を撞かれた気がした。
そのとき、胸の奥が猛烈に痛み、蠱毒がまた湧き上がる。灼けが血液に乗って全身を焼く。
一歩踏み出した瞬間、視界が黒み、身体が勝手に揺れた。
次の瞬間、細い手が伸び、目の前で止まる。
触れない。引っ込めない。空中で、ただ止まっている。
「要るか。」
氷室硯の声は平静で、契約にサインするかどうか訊いているみたいだった。
神楽檀は目を上げた。
「氷室社長はいつの間に、こんなに人助けがお好きに。」
「人助けじゃない。」
淡く言う。
「氷室の場所で人が倒れると、外聞が悪い。」
やはり、あの氷室硯だ。
「ご安心を。」
歯を食いしばる。
「死にはしません。」
言い終わるか終わらないかで、胸がぐっと引きつり、何かが心臓を噛んだみたいだった。呼吸が乱れ、身体が支えきれず、前へよろめく。
今度、氷室硯は支えず、手だけをそこに置いた。欄干の一切れみたいに、安定している。
歯を食いしばって廻り込もうとし、足元が抜け、結局、彼の腕を掴んだ。
掌が触れた瞬間、引き千切るような痛みが、異様に数分、和らいだ。
神楽檀の瞳孔が縮む。
やはり、錯覚ではない。一度目も、二度目も。
この男には、何かのスイッチがある。近づけば、暴れていた蠱毒が勝手に潮を引く。
氷室硯は目を伏せ、袖口を掴む手を一目見た。動かず、口も開かず、掴ませておく。
数秒後、神楽檀は我に返り、すぐ手を放した。
「失礼。」
「構わない。」
手を引き、何もなかったみたいだ。
それでも鋭く捉えた。彼の視線が、右手に一瞬、停留したことを。
胸で警報が鳴る——観察されている。拳の形から、痛みの忍び方まで、この男は何も言わず、何もかも記している。
先に出た。
「氷室社長が医者を出したのは、私の動作を研究するためですか。」
「職業病だ。」
氷室硯は目を上げる。
「商談の前に、向かいに座っているのが誰か、確かめないとな。」
「最近はお暇のようですね。」
「最近は、以前より少し暇だ。」
一拍、置く。
「なにしろ、競争相手が、最近ずいぶん変わった。」
空気が、急に静かになる。
神楽檀は乗らなかった。これは試しだ。一字でも返せば、掘った穴へ落ちる。
氷室硯と五年手を交わせば、路数は知りすぎている——手札を表に出さず、一枚一枚掌に隠し、最後の一瞬で底を翻す。
五年前、初めてまともにぶつかった時を思い出した。
東エリアの土地。彼女は必勝を期し、彼も一歩も譲らない。
最終ラウンドの提示で、彼は五十万円だけ低く、辛勝した。
契約の日、人混み越しに彼女を一目見た。その目を、今でも覚えている——負けた不承ではない。何か得をした満足に、近かった。
当時は、見間違えたのだと思った。
話題を逸らす。
「さっきは、一つ借りを作りました。」
氷室硯の眉先が、軽く動く。
「神楽さんは、その癖のままだ。」
「何の癖ですか。」
「借りを残さない。」
ごく自然に言う。当たり前の昔話みたいだ。
神楽檀の胸が、ぐっと締まる——その癖は、「以前の神楽檀」のものだ。香月潤なら、得を取るのが当然だと思う。
彼は突かない。彼女も、認めてはいけない。
「商いでは、借りがいちばん高い。」
淡く言った。
氷室硯は彼女を見て、ふと笑った。笑いは浅く、すぐ消える。
「その台詞、以前にも誰かが言った。」
神楽檀の呼吸が、一拍、止まる。
彼女のことか。それとも、わざと釣っているのか。
胸がまた痛み、反射で拳を握り、親指を掌へ強く押し込む。氷室硯の目が、また一拍、止まる——またあの目だ。心の中で、何かを黙って記している。
すぐ手を開いた。
もう、遅かった。
彼はゆっくり視線を外し、何も見ていないふりをする。そうすればするほど、危うい。
「氷室社長。」
もう、時間を溶かすつもりはない。
「医者がまだ入らないなら、取引をしましょう。」
氷室硯は目を上げた。
「言え。」
「弟がどこにいるか、教えてください。」
氷室硯はすぐ答えず、逆に訊いた。
「なぜ、急に彼を訊く。」
「私の事情です。」
「それが、俺の答えでもある。」
口調は平静で、一滴も漏らさない。交渉卓で絶対に間違えない側だ。
神楽檀は深く息を吸い、身体の熱を押さえた。
「南区プロジェクトは、もう渡しています。その手札では足りませんか。」
「足りる。」
氷室硯は頷く。
「だが確認したい。なぜ訊く。南区一件で一文を買うには、値が合わない。」
「氷室硯。」
彼を見て、ふと笑った。
「慈善をするのに、戸籍まで調べるんですか。」
「調べてなどいない。」
ゆっくり口を開く。
「今、目の前に立っている人間が、何を気にしているか、知りたいだけだ。」
神楽檀の胸が、ひどく沈んだ。
また戻ってきた。回り回って、確かめたいのは弟ではなく、彼女だ。
視線を受け、一歩も退かない。
「何を気にするかは、氷室社長には関係ありません。」
「確かに。」
氷室硯は頷き、数秒黙って、ようやく口を開いた。
「神楽湊は、安寧療養院にいる。」
呼吸が、いきなり滞る。
「療養院? なぜ、療養院に。」
「一ヶ月前、」
氷室硯の声が、少し低くなる。
「会社へ、お前を探しに来た。あとでもう一度。」
「二度目に会社を出てから、公共の場で感情を失い、言い張った——」
そこで、止まる。
神楽檀の胸が締まる。
「何と。」
氷室硯は彼女を見て、一字一句。
「今の姉は、姉じゃない、と。」
どん、と頭の中が真っ白になる。
湊は、見破った。あの子は小さい頃から後ろに付いていて、眉を一つ寄せれば、何を考えているか分かった。
世界中が、あの顔に騙された。弟だけが、騙されなかった。
「翌日、」
氷室硯の声が、遠いところから来るみたいだった。
「安寧療養院へ送られた。診断は急性ストレス障害、被害妄想を伴う、と。」
神楽檀は彼を死ぬほど見る。
「誰が、入れた。」
今度、氷室硯は長く黙った。
そのとき、門外から医者の声がした。
「氷室社長、入ってよろしいですか。」
氷室硯は振り返らない。目は、ずっと彼女の顔に留まっている。極めて重いものを量っているみたいだ。
数秒後、ようやく口を開いた。
「手続き上の署名人は、お前だ。」
門外で、医者がまたノックする。
「氷室社長?」
神楽檀の頭は、その瞬間、轟然と爆ぜた。
彼女だ。
あの顔を被った香月潤が、彼女の名義、彼女のサインで、血の繋がった弟を、自分の手で精神病院へ送った。
胸の蠱毒が何かを感じ取り、いきなり沸騰する。劇痛が山を崩すように圧し、視界が揺れ、黒む。
意識が闇へ沈む最後の一瞬、彼女が見たのは、氷室硯が急に締まった目——と、もう一度、こちらへ伸びてきた手だった。




