第2話 綻び
氷室硯は受話器を置いた。
「携帯は五分後に届く。医者は十分以内だ。」
言い終えると、全面ガラスの前へ歩き、背を向けて空間を空けた。
窓外のネオンがガラスに映り、長く真っ直ぐな影を描く。肩の線は冷たく硬く、動かない。沈黙した山のようだった。
察しがいい。いや、もともとそうだ——口では何でも引き受け、目は何一つ見逃さない。
神楽檀は壁の時計を見上げた。
二十一時十九分。
この身体で目覚めてから、十九分が経っている。
いつまで持つか分からない。一時間かもしれない。次の一秒で、意識はまた、果てのない闇へ押し戻されるかもしれない。
再び沈んだら、香月潤が悪を重ね、自分を起こすのを待つしかない。
だが次はいつか。一日か。一ヶ月か。それとも——二度と来ないか。
負けられない。
新品の携帯はすぐ届いた。神楽檀は包装を解き、指先を画面に二秒止め、記憶どおり、諳んじた番号を押した。
鳴ったと思った瞬間に、出た。
「はい?」
向こうは少年っぽい声で、背景にキーボードを叩く音が混じる。
「星蘭。私よ。」
「檀さん?」
七瀬星蘭の声が一拍止まり、キーボードが止まった。
「この時間に、どうして——」
馴染みの呼び方が耳にぶつかり、鼻の先が急に熱くなった。
七瀬星蘭。四年前、新卒採用の会場で、彼女が自分で拾った人間だ。
三社に落とされた企画を抱えて目の前に立ち、理を尽くして争った。目は火の束みたいに明るかった。その場で採用を決め、四年かけて総合職研修から戦略部長まで育て、神楽でいちばん信頼する刃にした。
全社が彼女を神楽社長と呼ぶ。彼だけが、ずっと「檀さん」で通した。
「星蘭。」
感情を全部、心底へ押し戻し、声を安定させた。
「これから言うことは、一句一句、記して。なぜかは訊かないで。」
電話の向こうが、一秒、静かになる。
「……はい。」
「この一ヶ月、会社で何が起きた。」
星蘭は明らかに固まった。
「檀さん、それはもう——」
「答えて。」
声は軽い。だが商量の余地は、一つもない。
一瞬の沈黙のあと、書類を繰る音がした。
星蘭の速度が上がる。
「いちばん大きい変化は、研究開発予算の全面圧縮です。以前、檀さんは研究開発が会社の未来を決めるとおっしゃった。この一ヶ月は、チームを二つ連続で切り、進行中の案件を三つ止めました。」
神楽檀の目が、わずかに沈む。
やはり、香月潤がやりそうなことだ。あの女は目の前の帳簿の金しか見ず、三年先の未来は見えない。
「ほかは。」
「従業員持株制度も止めました。コストが高すぎる、が理由です。」
携帯を握る手が、ゆっくり締まる。
あの制度は、報酬委員会と一年かけて形にした。中核の技術者を、神楽という船に縛るためだった。
「それと。」
星蘭の声が、少し低くなる。
「取締役会が決議して、一部子会社の持分を売ってキャッシュに換える準備に入っています。」
神楽檀の目が、わずかに動いた。
どれも、潤が残した跡だ。
「覚えて。」
一字一句。
「第一。研究開発を戻す。」
星蘭が口を開きかけ、遮られた。
「実行までは戻さなくていい。議題を戻す。明日の取締役会で、研究開発の再開を再提出して。」
「提出、だけですか。」
「そう。公開で議論して、手続きを全部踏む。」
分かっている。潤は否決する。研究開発は金を焼く。潤は惜しい。
潤が衆目の前で一度否定すれば、それは新しい貪欲、新しい加害だ——蠱の返り噬みが、もう一度来る。
欲しいのは、これらの案件ではない。
欲しいのは、次の目覚めだ。
「第二。従業員持株も戻す。同じく、通さなくていい。取締役会へ再提出するだけでいい。」
「第三。AI医療画像の件は進める。書類を全部揃えて、明日、私の机に置いて。」
「第四。」
一拍、置いた。
「この一ヶ月、私がサインした書類は、今夜中にまとめて、あなたの個人の金庫に入れて。誰が取りに来ても——『私』本人でも——私の直筆の権限がなければ、渡さない。」
電話の向こうが、完全に静かになった。
七瀬星蘭は神楽で四年、彼女と一緒にいくつもの硬い戦いを踏んできた。
聞き分けられる。電話のこちらは、一字一字に旧日の影がある——三手先まで読んでから動く冷静さは、真似できない。
数秒して、ついに堪えきれなくなった。
「檀さん……いったい、何をするつもりですか。」
神楽檀は全面ガラスの外の夜を見た。都市の灯が空まで続き、かつては一つ一つ、自分が打ち取った山河だった。
声は、とても軽い。
「一人を、我慢できずに間違えさせる。」
星蘭は分からなかった。それでも答えた。
「分かりました。」
「それと。」
彼女は続けた。
「今日から、私がサインした書類は原本とスキャン、二部残して。取締役会は全部、録画。私が何を決めても、原稿は絶対に捨てない。」
「分かった?」
「分かりました。」
神楽檀は、やっと息を吐いた。会社を管理しているように見えて、実は一つ一つが潤への罠だ。
あの女が消したがり、覆したがるほど、跡が残り、蠱の返り噬みも起きやすくなる。
電話の向こうで、星蘭がためらう。
「檀さん、一つ、訊いていいですか。」
「訊いて。」
「もしかして……」
声が低く、年不相応な慎重さが乗っている。
「誰かが、檀さんを偽っていますか。」
神楽檀の胸が、軽く震えた。
やはり、察した。自分で育てた若者は、年齢を超えた鋭さを持っている。
だが今は、真相を話す時機ではない。換面の蠱、借りた身体で還る——そんな話は、彼を危険に巻き込むだけだ。
「いつか分かる。」
彼女は言った。
「今は、今しがた頼んだことをやって。覚えて。これは、私たちの間の話。」
「はい。」
神楽檀は一拍置き、ずっと心底に圧し、重くて触れられなかった問いを、ようやく出した。
「会社以外。家は……何かあった。」
電話の向こうが、急に黙った。
その沈黙は、おかしい。星蘭はいつも歯切れがよく、訊かれれば答える。こんなに躊躇したことはない。
胸の奥が、ぐっと沈んだ。
「言って。」
「檀さん。」
星蘭が低く言う。
「もう一ヶ月以上、旧宅へ戻っていません。」
「湊が、会社へ二度、会いに来ました。」
呼吸が、いきなり詰まる。
神楽湊。弟だ。両親が逝ってから、自分が一手に引き上げた子。今年、十八になったばかりだ。
「それから。」
「一度目、受付が外出中だと言い、二時間待ちました。」
星蘭の声が、どんどん低くなる。
「二度目は、一緒に出て行った。そのあと……誰も、彼を見ていません。」
神楽檀の指先が、一瞬で氷になった。
二十一時三十一分。
そのとき、後ろの氷室硯が口を開いた。
「医者が着いた。」
振り返る。白衣の医者が薬箱を提げて入口に立ち、後ろに看護師。氷室のアシスタントが、二歩手前で止めている。
時間を見た——また十二分、過ぎていた。
もう、時間がない。
「星蘭、今日の電話は、誰にも言わないで。」
絨毯の模様を見つめ、一字ずつ区切った。
「これから先も。この顔を被って会いに来る人にも。」
星蘭が固まる。
「檀さん、それは——」
彼女は、そのまま切った。
医者が薬箱を提げて近づき、診ようとする。神楽檀は顔を上げ、全面ガラスの前の男を見た。
「氷室社長、一つ訊きたい。」
氷室硯が手を振った。
「先に出ていろ。」
医者は一瞬呆け、氷室硯を見、ソファの女を見、結局何も訊けず、看護師を連れて下がった。
扉が静かに閉じ、個室には二人だけが残る。
氷室硯は彼女の前まで歩き、上から見下ろした。
「何を訊く。」
神楽檀は視線を受け、一字一句。
「一ヶ月前。私が湊を連れて会社を出たあと、何が起きた。」
氷室硯は黙った。
すぐには答えず、ただ静かに彼女を見る。
その目に、初めて敵意も点検もない。長く長く抑えてきた、判別しがたい複雑なものが、ただ一つあった。
しばらして、低く問い返した。
「先に、答えろ。」
「お前は、いったい誰だ。」




