第1話 換面の蠱
最高級クラブのVIP個室。
薄暗いフロアライトがレザーソファを甘く伝い、最後に絡み合う二つの影へ落ちた。
神楽檀は、骨まで凍るような熱に疼いて目を覚ました。
目を開ける前から、自分の姿勢がひどくみっともないのが分かった。
男の腕の中に半ば凭れ、骨盤が相手の引き締まった太腿に食い込み、腰は熱い掌にしっかり抑えられ、手首はもう片方の手に隙間なく掴まれている。抜け出す余地は、まったくない。
氷室硯だ。
氷室グループの実権者。界隈で彼の名が出れば、三つの言葉がついて回る。気性が冷たい。手段が容赦ない。境界線が厚い。
どれだけ頭を尖らせて近づこうとしても、最後は頭を割って返り討ちに遭う。彼の執務室の扉がどちら向きに開くかすら、掴んだ者はいない。
そして彼は、神楽檀と商戦で五年、真っ向からぶつかってきた相手でもある。案件を奪い、資源を横取りし、布陣を崩す。何度交わしても、どちらも決定的な勝ちは取れなかった。
界隈では周知だった。神楽と氷室の王は、宿敵である。
「離せ。」
彼が口を開く。声は低く、冷たい。氷を焼き入れたみたいだった。
神楽檀は、彼の視線に従って俯いた。
ワインレッドのロングドレスが膝の上で乱れ、裾から白い脹脛が覗く。鎖骨には尋常でない潮紅が浮き、呼吸にまで灼ける熱が乗っている。
半秒、固まった。すぐ、この身体がおかしいと悟った。
「失礼した。」
ソファの肘掛けを突いて立ち上がろうとする。滾る熱が、下腹から一気に駆け上がった。
同時に、身体の奥で無数の細い虫が一斉に目を覚ましたみたいに、血脈を一寸ずつ噛んでいく。痺れと痛みが、骨の隙間まで這い込む。
両脚が抜け、彼女はまた男の腕へ落ちた。両手は反射で、彼のシャツの前を死ぬほど掴む。
氷室硯は腕の中の人間を見下ろし、眉間をごくわずかに寄せた。
「薬が回り始めたのか。」
薬?
神楽檀が追いつく前に、頭の中で「どん」と爆ぜた——
無数の画面が、決壊した水みたいに意識へ押し寄せる。
賃貸。ガス。炎。
そして、歪んで笑う顔。
「檀、恨まないで。」
「全部持ってるのが、お前なんだもの。」
「今日から、お前の人生は私のもの。」
……
思い出した。
彼女は、もう死んでいる。先月のことだ。
あの日、香月潤は泣きながら彼女を訪ね、床に跪いて脚にすがり、全身を震わせて泣いた。化粧は、もう崩れていた。
「檀、本当にもう生きていけない。」
「父がまた賭けて、家も抵当に出された。」
「取り立てが、返さなきゃ私を水商売に売るって……」
香月潤は、いちばんの友人だった。大学で二段ベッドを分けた時から、起業、神楽の継承まで、彼女はこの女を一歩ずつ自分の傍へ引き上げてきた。
潤の家の腐った尻拭いは、何度も彼女が表に出て片付けた。潤の父の賭債も、静かに埋めたことが一度や二度ではない。
彼女は潤を、家族だと思っていた。
事が起こる一ヶ月前、潤はまた彼女の前に跪き、父が八百万円を欠き、取り立てが人を水商売に売ると言った。
金は出すと約束した。ただし、その時だけ条件を一つ足した——香月建を依存症リハビリへ送ること。さもなくば、これが最後だ、と。
今でも、潤のあの表情を覚えている。
泣きながら、頷いて、「檀は私に本当に優しい」と言った。
その両手は、膝の上で、少しずつ握りしめられていた。
当時は、恥だと思った。今になって分かる。あれは恥ではない。恨みだった。
二十年以上の釣り合わない関係が、その瞬間、最後の情を焼き切った。
だからあの夜、運転手すら連れず、自分で運転して潤を古い賃貸まで送った。
そして、潤が差し出したコップの水を飲んだ。
目が覚めたとき、四肢は上げられないほど緩く、視界には潤が鏡を掲げ、にこにこ見ている姿だけがあった。
「檀。」
「お前の顔が、私に乗ると、こうなるんだね。」
俯いて、鏡の中の人間を見た。
違う。あれは、彼女ではない。
香月潤のものだった、濃艶で俗悪に近い顔だった。
本当に彼女のものだった顔——眉目が冷たく、輪郭がはっきりした顔は、もう潤の頭に乗っていた。
潤は新しい顔を何度も撫で、泣きながら笑った。
「知ってる? 私、二十年以上、お前を羨んでた。」
「どうしてお前は全部持ってるの。家柄も、能力も、顔も。お前が出た瞬間、みんなの目はお前しか見ない。」
「氷室硯が好きなのも、お前。」
当時は、泣くべきか笑うべきかすら分からなかった。
「氷室硯?」
「本当に、嫌われてるとでも思ってた?」
潤は鏡に向かい、もともと彼女のものだった顔を優しく撫でる。声は、滲みるほど柔らかい。
「神楽檀、鈍すぎない? 澄江市で、自分だけ気づいてない。」
「でも、いい。」
「これからこの顔は、私のもの。お前の人生も、私のもの。」
それから潤は、密閉した賃貸に彼女を置き、目の前でガスのバルブを開いた。
金属のつまみが回る「カチッ」が、前世で彼女が聞いた最後の音だった。
……
記憶は、そこでぷつりと切れた。
神楽檀は目を見開き、胸が激しく上下する。冷や汗が背を一寸ずつ伝う。
香月潤は換面の蠱で、顔も指紋も会社も人生も奪った。
だが潤が知らないのは——この蠱は、返り噬む、ということだ。
潤が「神楽檀」を被って嘘を一つ言い、人を一人害し、本来彼女のものを一分でも奪うたび、神楽檀はこの身体の中で、短く目を覚ます。
彼女は、死んでいるはずだった。
では、今は……
視線が、ゆっくり下りる。
氷室硯の胸に当たっている両手は白く細い。爪には、彼女が決して塗らないワインレッドのマニキュア。薬指には三カラットのダイヤが、灯の下で眩しい光を弾いている。
香月潤の身体だ。
馬鹿らしさが広がる前に、無理やり押さえていた熱が、完全に裏返った。
薬性と蠱毒が同時に走る。熱と寒が身体の中で引き千切る。額は冷や汗を止めず、肌は恐ろしいほど熱い。
熱いのは薬だ。潤が今夜の「偶然」のために自分へ盛った媚薬で、用量は容赦がない。
寒いのは蠱だ。換面の蠱がこの皮に付き、出てはいけない旧主を認めて、一寸ずつ目覚め、返り噬んでいる。
二つの力が五臓六腑で戦争を始め、鈍い刃で骨の隙間を往復して挽くみたいだった。
歯を食いしばり、声一つ出させない。
氷室硯は何者か。五年争った相手だ。誰の前で倒れてもいい。彼の前だけは、崩れてはいけない。
だが身体は、もう言うことを聞かない。潤が氷室硯を釣るために盛った薬は重すぎて、この身体の主も今ごろ、どこかで昏沈んでいるはずだった。
氷室硯は彼女を、長く見下ろした。
「今日は、また何を演じる。」
一言が、神楽檀の胸をぐさりと沈めた。
演じる? 彼の目には、「神楽檀」が今夜したことは、またしても計算にすぎない。
もっともだ。この顔を被った人間が、この一ヶ月、どれだけ無茶をしたか分からない。
「氷室社長。」
ソファの肘掛けを支え、指先が白くなるまで力を入れた。
「失礼した。今夜のことは、私の礼を失している。」
立ち上がろうとする。両脚に力を入れた瞬間、視界が黒み、身体が揺れた。
氷室硯は目にも留まらぬ速さで、彼女を支えた。
距離が、いきなり縮む。雪のようなシダーの香りがした。冷たく、清潔で、雪のあと松林を抜ける風のようだった。
奇妙なことに——
彼に一分近づくたび、身体の中で暴れていた蠱毒が、一分静まる。
神楽檀は、呆然とした。
なぜ。
氷室硯も、明らかに察した。
支えた瞬間、劇痛で乱れていた呼吸が、少しずつ整い始めたからだ。彼女自身ですら、異様な速さだった。
彼は見下ろし、目がどんどん深くなる。古い井戸が二つ、彼女を丸ごと吸い込みそうだった。
「お前は……」
何か訊きたそうに、喉仏が動いて、止まった。
神楽檀が視線を辿ると、いつの間にか右手が拳に握られ、親指が掌を死ぬほど押さえている。
小さい頃からの癖だ。
痛みを忍び、考え、自分を冷静に追い込むとき、必ずこうする。父は昔、笑って言った。痛みを掌の中で砕く子だ、と。
瞳孔が縮み、すぐ手を開いた。
遅かった。
氷室硯は、もう見ていた。
空気が、急に静かになる。互いの呼吸まで、はっきり聞こえるほどだった。
氷室硯はもう何も言わず、ただ彼女を見ている。さっきほど冷たくない。何かを確認するみたいで、否定するみたいでもあった。
最後に、支えていた手をゆっくり放し、声はいつもの平静に戻った。
「医者を呼ぶ。」
「結構です。」
ほとんど、口が先に出た。
医者は見られない。ここにも、留まれない。
今回、いつまで醒ていられるか分からない。一時間かもしれない。次の一秒で、また闇へ落ち、この身体の奥へ押し戻されるかもしれない。
そのとき、もっと激しい痛みが胸の奥から爆ぜた。胸腔の中で火を点けられたみたいだった。
もう支えきれず、額を彼の鎖骨へ預ける。
シャツ一枚越しに、彼の涼が滲み、天を衝く痛みが本当に、少し緩んだ。
次の瞬間、氷室硯は身を屈め、彼女を横抱きに上げた。
悲鳴を上げる暇もなく、数歩で個室奥のソファベッドへ運ばれ、静かに下ろされる。
動作は優しいとは言えない。だが安定している。壊れやすい磁器を抱くみたいだった。
「もう少し耐えろ。」
声が、珍しく不安定だった。
「医者はすぐ来る。」
神楽檀は目を開け、目の前の顔を見た。
灯が横顔に落ちる。いつもの、温度のない顔が、今は極限まで張り、顎の線は刀で刻んだようだった。
この人の心拍が速いと、急に気づく——胸に貼りついて、ドクン、ドクン。平時より明らかに速く、表に出している平静とは似ても似つかない。
「氷室硯。」
喉仏が、また一度、上下した。
「ああ。」
「南区プロジェクトは、譲ります。一度、助けてください。」
眉が寄る。
「今、それを言うのか。」
「今、新品の携帯を一台ください。」
目を見て、一字一句。
「起動して、SIMを入れて。何も訊かないで。」
個室が、数秒、静かになった。
氷室硯は見下ろす。この女は薬熱で全身を震わせ、唇の色まで白い。なのに目だけが、驚くほど明るく、拒めないほど明るい。
しばらして、彼は身を翻して立った。
「待ってろ。」
個室の隅の内線へ歩き、一本、入れた。




