第10話 再び、目覚める
午後三時二十分、社長室。
香月潤はファイルの束を秘書の前へ押し、指先で机を叩いた。
「法務に連絡して。野村を訴える準備を。」
芹沢すみれは固まった。
「神楽社長、訴訟、ですか。」
「昨日の取締役会で、衆目の前で逆らいました。」
香月潤は表情がない。
「案件データを取締役会以外へ漏らした方向で、法務に調べさせろ。会社に、ああいう刺さる頭は要らない。」
すみれはためらう。
「ですが……会議で違う意見を出しただけで、規程違反ではありません。制度上、訴訟の基準には届きません。」
香月潤は顔を上げ、目が直接冷えた。
「私が、言えと言った。訴えろ。神楽に、管理に服さない人間は要らない。」
すみれはもう諫められず、ファイルを抱えて下がる。
「承知しました。」
扉が閉じた瞬間、香月潤は背もたれへ凭れ、全面ガラスの外の街を見て、口角がゆっくり上がる。
以前、いちばん嫌いだった連中だ——一人ひとりが清廉を気取り、年功で指図してくる。今は、彼らの運命を決める番だ。一言で、二十年働いた老エンジニアの身を、地に落とせる。
その感覚が、病みつきになる。
次の瞬間、胸が猛烈に痛んだ。
劇痛は極めて速く、焼き入れた刃が五臓六腑を貫くみたいだ。身体を支えきれず、背もたれに沿って絨毯へ滑り落ち、額に冷や汗が瞬時に敷き詰まる。
頭の中で、冷たい女の声がしたみたいだった。
「私のものを、楽しんで使ってる?」
香月潤の瞳孔が縮み、頭を抱えて唸る。
「誰! 出てこい!」
返事はない。痛みはどんどん強く、無数の手が身体の奥から外へ引っ張り、この躯を無理やり引きずり出そうとするみたいだ。
自分を死ぬほど抱き、必死に抗う。
「いや……これは私の人生だ! 私のものだ!」
次の瞬間、すべての音が消える。世界が闇へ落ちた。
*
神楽檀は目を見開き、大きく息を吸い、片手で机の縁を突いて、どうにか身体を安定させた。
胸はまだ隠かに痛み、潮が引いたあとの砂浜の跡みたいだ。
額を押さえて二秒、緩め、第一に携帯を見る——十五時二十四分。
机にファイルが数部、広がっている。訴訟通知、研究開発予算の破棄申請、持株制度の終了通知。どれも末尾に神楽の公印が押してある。
何が起きたか、一瞬で分かった。潤がまた、自分の身分で暴走している——今度は、古い家臣に手を出す。
神楽檀は目を閉じ、前の二度の目覚めの時機を速く辿る。
一度目、潤が自分の顔を被って氷室硯を釣り、薬を盛ってこの身体を辱めた——目覚めた。
二度目、潤が取締役会で研究開発を切り、持株を否決し、会社の根を揺らした——目覚めた。
今が三度目。潤は野村を訴え、二十年会社に命を売った人間を壊そうとしている。
全面ガラスの映りに、自分の影を見る。顔はまだ自分の顔だ。顔の後ろの身体は、違う。だが法則は、おぼろに浮かんでいる——潤が、絶対にしないことを一つするたび、蠱が返り噬み、自分が一度、主導権を奪い返す。
鉄則かどうかは、今は分からない。
だが、試せる。
神楽檀はパソコンの前に座り、暗号を入れ、暗号化ファイルを出す——海外技術の買収案件だ。
対象は欧州の老舗材料企業。利益率は驚くほど高く、リスクも驚くほど高い。
もともとの計画は十二ヶ月のデューデリを満了し、来年、着実に進める。急いで着地させない。
だが香月潤は違う。
潤は功を急ぎ、体面を愛し、「元の神楽檀」より強いと証明したがる。この数字が目の前にあれば、我慢できるはずがない。
潤を、知りすぎている。
二十年以上の「友人」。酒の席で先に勘定を奪うのを見、自分を「神楽檀の傍でいちばん大事な人間」に包装するのを見、表でも裏でも、二十年以上張り合ってきたのを見てきた。
こういう人間には、自分を証明する機会を一つ渡せば、命がけで鉤に噛みつき、糸すら見ない。
神楽檀は完成した方案をそのまま印刷し、机のいちばん目立つ位置へ置き、表紙に赤ペンで二行、印した。
【案件の予想利益率:三十八パーセント。】
【着地後の時価総額、およそ二十億増。】
それを終え、潤が午後にした操作を全部撤回する——研究開発予算を戻し、持株を再起動し、訴訟を取り消し、全部、合議の流れに乗せて、完全な書面を残す。
時間を見る。十五時三十二分。
そのとき、執務室の扉がノックされた。
「神楽社長。」
すみれが扉を押して入る。
「氷室社長がいらっしゃいました。」
神楽檀は予定を繰る——午後四時、潤が氷室硯と南区の話をする約束を入れている。
返事をしようとした瞬間、胸がまた引きつり、指先が痺れるほど痛い。机の縁を死ぬほど掴み、額に細い汗が瞬時に浮く。
すみれが慌てる。
「社長、大丈夫ですか。医者を呼びましょうか。」
「大丈夫。出て。」
扉が閉まった直後、劇痛がまた来る。さっきより酷い。視界が黒み、身体が揺れる——
次の瞬間、一本の手が、彼女をしっかり支えた。
馴染みのシダーの気配が、いきなり近づく。神楽檀は顔を上げ、深い眸へぶつかる。
氷室硯だ。いつの間に入って来ていた。ノックすらしていない。
「また、痛むのか。」
耳の傍で、低く磁性のある声。高くない。鼓膜を転がっていくみたいだ。
神楽檀はすぐ体を起こし、距離を取る。
「氷室社長、ここは神楽です。男女のあいだは、距離を置いたほうがいい。」
氷室硯の目の底に、ごく淡い笑みが走る。
以前、協業の交渉でもこうだった——身体はもう支えていないのに、口だけは絶対に弱音を吐かない。全身に棘を立てた針鼠みたいだ。
「神楽さん。」
ゆっくり口を開く。
「今、俺と距離の話が必要か。」
神楽檀は俯いて一目見て、自分の手がまだ彼の袖口を死ぬほど掴んでいると気づく。
一瞬、固まった。
錯覚ではない。彼が近づけば、蠱の返り噬みは止まり、胸の火は綺麗に消え、余熱だけが残る。
さりげなく目を上げる。氷室硯も彼女を見ている。目は深く、以前の試しの鋭さはない。何かを確認しているみたいだ。
「氷室社長。」
手を放す。
「今日は、私を見に来ただけ、ではないでしょう。」
氷室硯はようやく視線を引き、ソファの前へ歩いて座る。
「南区だ。」
「どうぞ。」
「昨日は、考える、と言ったはずだ。」
ファイルを繰る手が、わずかに止まる。
昨日? 言っているのは、潤だ。
「考えました。」
淡く言い、ペンを取り、譲渡契約の末頁に名を記す。筆鋒は鋭く、一気に終わる。
氷室硯はファイルを受け取らず、ただ彼女を見る。
「神楽檀、最近の自分に、変化が大きいと気づかないのか。」
心臓が一拍、跳ねる。顔には出さない。
「氷室社長、商談で相手の性格の変化を論じるのは、少し越境ではありませんか。」
低く、軽く笑う。
「相手? ずっと、俺たちは相手だと思っていたのか。」
神楽檀は彼を見て、答えなかった。
氷室硯はファイルを開き、視線は署名欄に一秒だけ留まる。
「南区を、なぜ急にまた翻した。」
「神楽に、必要だからです。」
「違う。」
遮る。
「本物の神楽檀は、そうは答えない。」
神楽檀は目を上げる。
「では氷室社長、本物の神楽檀なら、どう答える。」
「こう言う。——『氷室硯、欲しいなら持っていけ。得をした顔をするな』」
真似は速くも遅くもなく、口調までちょうどいい。
「『必要』という、弱さを見せる言い方は、しない。」
執務室が、一瞬、静かになる。
神楽檀は情緒を押さえ、一度笑った。
「氷室社長は、いつの間に私の言い回しまで研究して。」
「ずっと前から。」
彼女を見る。笑わない。
二字が、胸を訳もなく震わせた。
「私たちのあいだは、」
視線を外す。
「そこまで親しくはないはずです。」
氷室硯の目の底に、複雑なものが一瞬、走る。
「そうか。神楽檀、本当に、そう思っているのか。」
答えなかった。商いの話か、それ以外か、分からない。知りたくもない——少なくとも今は。今回の目覚めには、もっと大事なことがある。彼と駆け引きする時間はない。
「今日の協業は、ここまでです。」
外套を取り、立ち上がる。
「まだ座っているなら、芹沢に応対させます。」
氷室硯も怒らず、淡く訊く。
「どこへ行く。」
「療養院です。」
頷く。少しの意外もない。その三文字を、最初から待っていたみたいだ。
「送る。」
「結構です。」
「要る。」
口調は平静だが、拒む余地をくれない。
「今の状態では、運転できない。」
反論しようとして、胸がまた隠かに痛み、この身体の期限を思い出させる。
言葉を飲み込んだ。
「行きましょう。」
エレベーターに入り、鏡面に並んで立つ二人を見て、ふと口を開く。
「氷室硯、今日は随分ご丁寧ですね。外の噂は怖くないんですか。」
「何の噂だ。」
「神楽と氷室は五年争って、」
鏡の中の彼を見る。
「弟を見に送れば、氷室社長に別の意図がある、と言われます。」
エレベーターが「チン」と一階に着く。
氷室硯は歩いて出、熱も冷も乗らない一句を残した。
「言わせておけ。」
「どうせ、」
一拍置き、振り返らない。
「最初から、別の意図がある。」
神楽檀はその場に固まり、その台詞の味を、しばらく取れなかった。
氷室硯はもう訊かず、椅子の背のスーツを取り、静かに後ろに付き、一歩も離れない。




