第11話 遅れた駆け付け
安寧療養院は城北にあり、都心から四十分の車程だ。
高架に乗り、氷室硯が運転し、神楽檀は助手席に座る。二人とも口を開かない。車内にあるのは、空調の細い風音だけだ。
赤信号で止まったとき、神楽檀は前の車列を見て、何年も前のことを思い出した。
両親が逝った年、神楽湊は九歳だった。
葬儀場の入口、弔問の人が出入りし、黒一色に見える。
あの子はずっと彼女の裾を掴み、最初から最後まで放さなかった。親戚がこれから誰と暮らすか訊いても、口を開かず、ただ顔を上げて彼女を見る。
彼女はしゃがみ、涙を拭いて言った。
「これから、姉さんが養う。」
当時、彼女は十八歳。大学の合格通知が届いたばかりで、神楽には遺産を分けたがっている親戚が、虎視眈々と待っていた。
子どもをどう養うか分からず、思春期の扱いもできず、まともな食事すら作れなかった。
初めて卵チャーハンを作り、塩を入れすぎた。九歳の湊は頭まで汗をかきながら、ずっと美味しいと褒めた。
洗い物の途中で振り返ると、つま先立ちで残りの半分をゴミ箱へ捨てているところだった。
腹が立ち、おかしくもあり、フライ返しを持って家中を追いかけた。彼は逃げながら叫ぶ。
「姉さん、大きくなったら稼いで養うから!」
額をコツンと叩いた。
「先に、大きくなれ。」
頭を揉み、真剣に言った。
「十八になったら。」
信号が青になる。車列がゆっくり進む。
神楽檀は窓の外を見て、目尻が熱い。
十八の誕生日、約束した——手元の仕事を片付けたら、誕生日を一緒に過ごし、オーロラを見に行く。三年、彼が言い続けたオーロラだ。
だが、約束を破った。
あの日、会いに行った人間は、彼女ではなかった。
「赤だ。」
氷室硯の声が、ふと落ちる。
神楽檀は我に返り、車が止まっていると気づく。情緒を収め、背もたれへ凭れた。
「よそ見などしていません。」
氷室硯は一目くれ、突かず、手を伸ばして空調を二度、上げた。
二十分後、車は療養院の入口に停まる。
ここは静かだ。静かすぎて、胸が沈む。看護師が彼女を認め、迎えてきた。
「神楽社長、弟さんに会いに?」
頷く。
「今日は、どうですか。」
看護師は横の医者を見た。医者が眼鏡を直す。
「治療に、まだ協力しません。」
神楽檀は眉を寄せる。
「どういう意味ですか。」
「騒ぎはしません。だが薬は飲まず、カウンセリングも聞きません。」
医者が記録を繰る。
「ペンは取り上げました。すると毎日、爪で机に字を刻んで記しています。口ではずっと、迎えが来る、と言っています。」
喉が詰まり、あとの言葉は一字も耳に入らない。
氷室硯は医者からカルテを受け取り、そのまま彼女へ渡した。
開く。
一頁目は入院届。家族署名欄に、彼女の名前——筆跡は八分、似せてある。拇印が一枚、押してある。
二頁目は診断。主治医は園田、字は乱雑だ。「患者に被害妄想、同一性の障害および攻撃行動あり。閉鎖管理、薬物介入を勧める。」
下に、監視カメラの画像が三枚。
一枚目、神楽ビル一階。神楽湊が廊下に立ち、監視へ向かって「イェイ」の手を作っている。右下の日付は、十八歳の誕生日。白いパーカー、清潔で、笑い、目が三日月になっている。
二枚目、同日午後、カフェの前。街灯に凭れ、唇が動いている——電話のようでも、独り言のようでもある。
三枚目、ゴミ箱の横にしゃがみ、膝を抱え、頭を低く埋めている。
カルテの末尾。【患者は公共の場で異常を示し、何度も独り言、環境の物体と対話。家族より性格急変、至親への敵意ありとの申告。】
神楽檀は一頁ずつ見終え、指先が氷になる。
あの「異常」が何か、分かっている。誕生日の「イェイ」は、一緒に過ごす約束をして、会社に入ったときの嬉しさだ。街灯に凭れたのは、彼女へ電話していた。ゴミ箱の横にしゃがんだのは、何時間待っても、人が来なかったからだ。
それが全部、「病状」に書かれた。
家族署名欄の拇印は、赤くて目が痛い——香月潤が彼女の顔を使い、筆跡を真似、どこから調達した拇印を押し、一画一画、弟を精神病者に釘付けした。
いい。よくやった。
この帳は、記しておく。元も利息も。
カルテを閉じ、看護師の後ろを病棟へ歩く。
看護師が扉を押す。
「神楽さん、お姉さんが会いに来ました。」
神楽湊が顔を上げる。
四つの目が合った瞬間、神楽檀の胸が、掌に強く握られたみたいだった。
痩せ細り、顎が尖り、目は平たい。見知らぬ人間を見る目だ。
「彼女じゃない。」
看護師が息をつく。
「来るたび、そう言います。」
湊は俯き、机の紙切れをまた整理する。神楽檀が近づくと、机の隅に小さな木箱があり、四角く折った紙がいっぱい詰まっている。
一枚取り、開く。
【姉さんは辛いものが好き。だが胃が弱い。辛すぎてはいけない。】
もう一枚。
【姉さんは忙しいと食事を忘れる。思い出させる。】
【姉さんは怒っても人を罵らない。机を三回叩くだけ。】
【姉さんは寒がり。冬の車に毛布を常備する。】
一枚一枚、二人しか知らないことばかりだ。
「認知の障害」と診断されたこの子は、姉についての記憶を全部、一条一条書いて、木箱に隠している。いつ奪われてもおかしくない宝を守るみたいに。
紙を置き、彼を見る。
「まだ、にんじんは嫌い?」
紙を整理する手が止まり、目を上げる。
「小さい頃、にんじんが薬みたいだと言って、いつも除けていた。偏食すると背が伸びない、と騙したら、三日は素直に食べて、四日目に飯の下に埋めてるのを見つけた。」
声は安定し、一字一句。
「その罰で『食べ物を粗末にしない』を百回書いて、書きながら泣いた。」
少年の目が、ようやく変わる。氷の湖に細い裂け目が入ったみたいだ。
「その話は……」
彼女を見つめ、声が張り詰める。
「誰が、教えた。」
真相は説明できない。言えるのは、これだけだ。
「あなたを、とても愛している人がいる。誰より、あなたを大事にしている。」
神楽湊は長く黙った。もう口を開かないと思ったころ、低く訊く。
「最後に会ったとき、何と言った。」
胸が痛む。ありのまま答える。
「十八になったら会社を置いて、オーロラを見に行こう、と。」
目尻が一度赤くなり、すぐ押し戻される。
「騙した。」
「なぜ。」
「来なかった。」
三文字は軽い。なのに神楽檀をその場に釘付けにする。
言いたい。来た、あの日来た人間は私ではない。言いたい。姉は、会いに行く途中で死んだ。言いたい。もう少し待って。これらの言葉を、そのまま伝えるから。
だが、何も出口に出せない。
今、真相を話せば、慰めではない。彼を再び「狂人」の淵へ押し戻すことになる。
もう言葉が続かず、身を翻して病室を出る。廊下の窓が開いていて、冷たい風が流れ込む。長く立ち、喉の腥く甘い塊を、ようやく押し下げた。
廊下の端、氷室硯が壁に斜めに凭れて待っている。いつから立っていたか、分からない。
赤い目尻を見て、ふと口を開く。
「神楽湊は子どもじゃない。十八だ。多くの大人より賢い。」
「分かっています。」
「分かっていない。」
氷室硯は彼女を見る。
「お前は、後ろに庇いたいだけだ。だがこの一ヶ月、あいつは一人で、全員に狂っていると言われた日々を、今まで担いできた。」
「お前が思うより、よほど硬い。」
神楽檀は一瞬、固まり、反論しなかった。
*
病室の中、神楽湊は机の水を見る——さっき看護師が新たに注いだもので、まだ湯気が立っている。
ふと眉を寄せ、杯を取り上げて匂いを嗅ぎ、低く言った。
「違う。」
横の看護師が固まる。
「何が、違うの。」
少年は入口のほうを見て、ゆっくり言う。
「さっきの人は、無意識に水を飲ませようとした。だが、ぬるま湯は飲まない。」
看護師は惑う。
「じゃあ、何を飲むの。」
神楽湊はしばらして黙り、その杯を傍へ押し、静かに言った。
「姉さんは、知っている。」




