第12話 二つの魂、一つの身
香月潤が目を覚ましたとき、執務室にはもう誰もいなかった。
窓外の空が暗くなり、街の灯が一つずつ点き、ガラスの壁に流れる光を映す。
ソファに座り、長く呆けた。
また、この感じだ。
眠っているあいだに、誰かが人生の一段を、そっと持ち去ったみたいだ。
机の前に座って野村の処理書類にサインし、法務へ訴訟案を用意させたと覚えている——次の瞬間、このソファに沈み、窓の外はもう夜だ。
途中、まるまる数時間が空いている。
いきなり立ち上がり、執務室の個室洗面所へ駆け込み、灯を押しつける。
鏡の女は眉目が精緻で、気質は冷たい。夢にまで見た、あの顔だ。
長く見つめ、指が眉骨、鼻梁、顎の線を一寸ずつ撫でる。この顔がまだ頭に乗っていると確認してから、ゆっくり息を吐いた。
まだある。顔もある。身分もある。全部、まだ自分のものだ。
だが、あの数時間は。
携帯を出し、通話、チャット、決済を一条一条繰る——異常はない。机の書類は整然としている。サインした起訴書類は消え、代わりに、覚えのない合議の紙が数枚ある。
一枚取り上げ、中身を見た瞬間、血がほとんど固まった。
【研究開発センター予算再開に関する合議意見】
【従業員持株制度再開に関する合議意見】
末尾は、自分の署名。自分の筆跡。
手が震え始める。
「眠って」いるあいだ、誰かがこの身体を使い、午後にした決定を全部、覆した。
そのとき、ポケットの携帯が一度、震えた。
取り出す。画面に新しいメッセージ。差出人のメモは「園田医師」。
【神楽様、昨夜お帰り後、C区隔離室の患者の情緒が激しく揺れ、当直が鎮静剤を追加しました。】
【それと、前回お話の「転院案」は、紙の権限をもう一部お願いします。】
転院案。
思い出した。先週、園田健に会い、現金三十万円を茶封筒に入れ、机の向こうへ押した。
要求は単純だ。神楽湊をもっと遠いケアセンターへ移せ。管理は厳しく、面会条件はもっと過酷に。できれば生涯、外の人間に会わせるな。
園田は封筒の厚みを量り、眼鏡を直した。
「神楽様、これは規則に……」
「規則は、」
二通目の封筒を押す。
「規則を守る人間が読むものです。」
二通が机に並ぶ。園田は十秒見つめ、白衣の下の手を伸ばし、一通ずつ引き出しへ収めた。
「来週、やります。ただし、書面の権限がもう一部。」
今週中に片付けるつもりだった。
このメッセージを見て、手の合議の紙を見て、寒気が尾骨から上がってくる。
連絡先のいちばん下、メモのない番号を出し、かけた。
プルル——二十秒近く鳴り、向こうが出る。
老女の声が砂紙で鉄鍋を擦ったみたいに嗄れている。
「誰だ。」
「私です。」
香月潤は声を落とす。
「先月、そっちで皮を替えた者です。」
数秒の沈黙。老女が「おお」と引き、尾を長くし、分かったような調子だ。
「どうした。皮が、おかしくなったか。」
「今日——」
唇を噛む。
「今日、数時間、自分が何をしたか全く覚えていません。書類が変わり、決定が覆り、私は部外者のようでした。」
「売ったとき、そんな副作用は言っていません。」
向こうで粗い笑いが起き、頭皮が痺れる。
「娘、言ったよ。」
「帰る日に言った。——それは旧主を覚える、と。」
指が少しずつ締まる。
「どういう意味です。」
「その皮が、元の主を覚える、という意味だ。」
老女はゆっくり言う。
「ずっと着て暮らせば、元の主も一緒に暮らす。その席に長く座るほど、魂の置き場ができる。」
「時間が経てば、力が出る。お前の体から手を出し、足を出す。」
洗面所の灯が惨い白さだ。鏡の自分を見つめ、馴染みの顔が急に他人に見える。
「では、どうすれば。」
「手はない。」
老女の声に波はない。
「着続けて、皮を馴染ませ、彼女が手を出せなくなるまで着るか。皮を剥いで元の主に返すか——ただし、元の主は片付けたはずだね。なら、道は一つだ。」
「馴染むまで、どれくらい。」
「執念次第だ。」
一拍、置く。
「浅い執念なら、三、五年で散る。深い執念は……ふっ、十年八年でも足りん。」
「振り込んだ金に、」
話を転じ、声を落とす。
「あと三百万円足せ。執念をいちばん養うものと、いちばん削るものを教える。着こなすかひっくり返されるか、育て方次第だ。」
目を閉じる。
「口座を送って。」
切ったあと、力なく洗面台に凭れ、冷たい大理石が背に貼りつく。
三百万円。多くない。今は神楽檀の金がある。三千万でも出せる。
怖いのは、別のことだ。
婆は言った。元の主が「力を出して手を出し足を出す」。
だが神楽檀は死んだ。自分の手で焼いた。
賃貸の遺体を火葬した日、サングラスをかけて葬儀場の外に立ち、一本の道を隔て、煙突から出る黒い煙が灰白い空へ散るのを見た。最初から最後まで四十分、確認に確認を重ねた——
職員が出てきて訊く。
「ご遺族ですか。遺骨はどうなさいます。」
一瞬呆け、相手が誰の話をしているか追いつく。香月潤の顔を被った焦死体は、全員の認識では「香月潤」だ。
「撒いてください。川へ。遠いほどいい。」
職員は言い淀む。
「儀式は、いりませんか。」
「いりません。」
身を翻して歩く。かなり離れてから煙突を振り返り、ふと低く笑った。
神楽檀、見たか。最後は遺骨すら、まともに置いてもらえない。
身体はない。灰になった。一本の完骨も残っていない。
では今、この身体の中で「手を出し足を出す」のは、誰だ。
顔を上げ、鏡の顔を見る。
鏡の「神楽檀」も彼女を見ている。眉目は冷たく、唇の色は白い。見ているうち、あの目の奥に別の人間が隠れ、冷たく見返している気がした。
身震いし、洗面所の灯を、いきなり消した。




