第46話 番外三・闇の中の日々
【一日目】
神楽檀は、激痛で叩き起こされた。
魂にも痛みがあるなら、という話だ。叫びたいのに、口がない。動きたいのに、手がない。最後の記憶は慈善晩餐のあのシャンパンで止まり、再び目を開けば——それが目を開けると呼べるなら——世界はすりガラス一枚になっていた。
ガラスの向こう、「彼女」が鏡の前で微笑を練習している。
一度笑って、不満。もう一度笑って、まだ不満。鏡の中の顔は自分の顔なのに、その微笑の練習の仕方は、見知らぬほどぞっとする。
神楽檀は丸一日かけて、この事実を受け入れる。
自分の身体の中に閉じ込められている。この身体を運転しているのは、別人だ。
【七日目】
見ることを覚えた。
あの女がサインを真似るのを見る。携帯を開き、暗証を覚えるのを見る。自分の寝巻を着て、自分の寝室を歩きまわるのを見る。
一番つらいのは、食事のときだ。あの女がアメリカーノに砂糖を入れる——二包。神楽檀は闇の中で怒って笑う。いいわ、コーヒーまで台無しにするのね。
笑い終えて、泣きたくなる。
湊が恋しい。弟は先週、中間試験がまあまあだったと送り、週末、旧宅へ戻るかと訊いた。彼女は「戻る」と返した——違う、あの女が、彼女の携帯で、代わりに「戻る」と返した。
弟、信じるな。あれは姉じゃない。
【二十三日目】
裂け目を見つけた。
あの日、女が書類にサインし、半年かけて押し通した研究開発予算を三分の一、削った。筆先が落ちた瞬間、神楽檀は自分を閉じ込めている闇が、薄氷のように、髪の毛ほどの裂け目を開くのを感じた。
そういうことか。
闇の中で冷静になる。この六十三日——あとで六十三日だと知る——彼女は一番忍耐強い狩人みたいに、裂け目が出る法則を記録し始める。
あの女が悪事を一つするたび、彼女が大切にするものを踏みにじるたび、裂け目は一分、大きくなる。
皮が旧主を認めている。皮が、帰りたがっている。
【三十日目】
持ちこたえられない夜も、あった。
あの日、あの女が旧宅へ行った——自分の家、父と母が残した家。書斎を引っ掻き回し、引き出しの一番下から古い封筒を出す。中は父と母が残した写真数枚と、母が書いた手紙一通、紙はもう黄色い。
あの女はざっとめくり、鼻で笑う。
「何の時代だ、まだこんなもの。」
封筒をシュレッダーへ、放りこむ。
轟——
神楽檀は闇の中で、狂ったようにぶつかる。母が残した最後の品だ。二十歳の誕生日のあと、持ちこたえられない夜ごとに取り出して見るものだ。シュレッダーが唸り、手紙が少しずつ噛み込まれ、母の端正な字が細長い断片になるのを見て——
闇の中で、音のない咆哮を上げる。
裂け目は、その瞬間、急に拡がる。
恨みの極みは、魂に重量があるらしい。その夜、初めて本当に、その身体の縁に「触れた」——あの女の心臓が、彼女の恨みで、一晩中、絞られるように痛んだ。
いい。闇の中で、一字一字、自分に言う。
お前が私の想いを砕いた。私が教えてやる。想いとは何か。
【四十日目】
一番堪えるのは、恨みではない。見ていることだ。
あの女が会社で手練手管を振るうのを見る。取締役たちが何も知らずにいるのを見る。星蘭の目の疑念が深まるのに、声を上げられないのを見る。
その夜、呼びかけを聞く。極く遠く、極く細く、世界のもう一端から来るみたいだ。
「姉さん……」
湊。
神楽檀の魂が闇の中で激しく震える。弟が呼んでいる。松山という場所で、冷たい病床で、弟が毎晩、呼んでいる。
応えられない。その呼びかけを受け取り、魂の一番奥へ隠し、闇に向かって何度も言うことしかできない。
姉はいる。姉は、ずっといる。
その日から、その遠い呼びかけが、闇の中の最初のひと房の光になる。
【五十五日目】
裂け目は、もう「力」が使えるほど大きい。
南区プロジェクトの二百八十億が包まれて送り出される日、取締役会が突然、暫定延期を議決する——あの女が電話を叩きつける音、「駒井会長」「追加デューデリ」の数語を聞き、激痛がすべてを呑む一秒前、ふと分かる。
誰かが外で止めている。誰かが外で、裏と表で合わせている。
星蘭か。取締役会か。それとも——
その名が浮かぶとき、闇が一瞬、静まる。
氷室硯。
五年戦った宿敵。交渉卓で半歩も譲らない男。もしあいつなら……あいつなら、全部、筋が通る。この世界で、彼女の棋路を一番知っているのは、最初から友人ではない。
相手だ。
闇の中、神楽檀はふと笑う。二つ目の光が、灯る。
【六十二日目】
高熱。あの女が病み、意識が昏い。隔膜はかつてなく薄い。
昏さの縁で、途切れ途切れの声を捉える——誰かが話している。近い。低い。
「……怖がるな。俺がいる。」
その手が「彼女」の手を握っている。その手の温度が、何層もの闇を通り、魂まで届く。
神楽檀は闇の中で目を見開く。
氷室硯。氷室硯だ。あいつの隣——「彼女」のベッドの傍に座り、その手を握り、ベッドの人間が自分だと思っている——ある意味、正しい。自分はここにいる。この身体の一番奥で、一字一字、聞いている。
怖がるな。俺がいる。
いい。心の中で答える。怖くない。みんながいる。怖くない。
【六十三日目】
子の刻。朱砂の陣。三問三答。
あの女が三度目に口を開き、「神楽檀」という名を噛み殺そうとしたとき、神楽檀は弟の叫びを辿り、壁越しの「俺はいる」を辿り、裂け目へ向かって、自分の全部をぶつける。
そのあとのことは、みんな知っている。
何年もあと、誰かが訊く。六十三日の闇を、どう持ちこたえたのか、と。
長く考えて、言う。
「二つの光だ。」
「一つは弟。戻らなければ、と覚えさせてくれた。」
「もう一つは——」
傍で蜜柑の皮を剥いている人間を見て、笑う。
「帰り道に、受けてくれる人がいると、教えてくれた。」
闇がどれほど深くても、人の心の光より深くはない。
持ちこたえ、信じ、何の希望も見えないときでも、あの一句を口の端にかけていれば——
もう少し。
*
【番外四・差異記録】
【七瀬星蘭の業務日誌より抜粋。原本四十七頁。現存は神楽グループ資料室。閲覧権限:本人に限る。】
——第1頁——
X月X日、晴。
神楽社長が戻った。事故休養一ヶ月、今日が復職一日目。
全員が息をつき、自分もだ。だが今日の感覚を、どう言えばいいか分からない——給湯室へ行き、アメリカーノを渡すと、受け取って「ありがとう、七瀬特助」と言った。
六年ついて、一度も「七瀬特助」とは呼ばれたことがない。
星蘭、と呼ばれる。
——第5頁——
朝会。研究開発センターの四半期予算が上がる。めくって、「まず抑えろ。資金は南区プロジェクトを優先」と言う。
会議室は黙る。浜田がその場で焦り、自分の目配せで押さえる。
散会後、記録を調べた。昨年の起案会、神楽檀が口で言った——「研究開発予算は止めない。神楽の命綱だ。触るやつは、出ていけ。」
この句を言った人間と、今日予算を押した人間は、同じ顔だ。
——第9頁——
今日、コーヒーを届け、わざと砂糖の包みを入れなかった。
かつての神楽社長、アメリカーノに砂糖は入れない。苦さが人を醒ます、と言っていた。一度、総務の娘が勝手に砂糖を入れ、一口飲んで何も言わず、自分で入れ直した。
今日の一杯は、二口飲んで眉を寄せ、秘書に砂糖を持って来させた。
二包。
執務室の入口に立ち、コーヒーを混ぜる姿を見て、ふと全身が冷える。この考えは、自分でも馬鹿げていて、考えるのが怖い——
だが、記す。万一、というものだ。
——第12頁——
にんじん。
今日、総務が取った軽食サラダに、にんじんが付いていた。全部食べ、汁まで残さなかった。
神楽檀はにんじんを食べない。偏食ではない。アレルギーだ——軽いもので、食べると発疹が出る。入社三年目に知った。社内レクで、にんじんの和え物を食べ、手首に小さな赤い点が一面、出た。手を振って大丈夫と言い、自分で軟膏を探した。
それから、自分が取る食事には毎回、注記する。にんじんは入れない。
六年、何百食、一度も外していない。
今日の分は、食べた。手首は綺麗だ。
弁当箱を下げるとき、電話中で、優しく体裁よく笑っている。その微笑を見て、ふと、ひどく悲しい——
うちの神楽社長は、ああいう人間だ。会社を六年、肩に担いできた人間だ。今、どこにいるか分からない。席を占めた人間が、その椅子に座り、その昼を食べ、こちらに微笑んでいる。
耐える。証拠がないうちは、一字も言えない。
——第15頁——
サイン。
今日、十二件。コピーを全部残した。資料室の過去六年のサインと照合した。
筆鋒は合う。構造は合う。力は合う。一箇所だけ。「檀」の最後の払い。
神楽檀の最後の払いは、永遠に三ミリ、上へ跳ねる。六年前、会社を継いだばかり、サインのとき手は震えていたが、あの払いはいつも跳ねていた——収筆は上へ、字が立つ、会社が立つ、と言っていた。
今日の十二件、払いは全部、平らだ。
真似が力みすぎている。力みすぎて忘れている。骨に生えた習慣があることを。
——第22頁——
歩幅。
一週間、数えた。玄関ホールからエレベーター口まで三十四歩。六年、雷が落ちても変わらない。
今の「神楽社長」は、二十八歩のことも、四十一歩のこともある。ヒールのとき、歩幅が細かくて体を成さない。
人間は整形できる。声は真似できる。だが筋の記憶は嘘をつかない——この身体は、このビルを知らない。
——第31頁——
怖くなってきた。
推測が本当なら、本物の檀はどこにいる。死んだのは誰だ。
夜、眠れず、二十頁余りの記録を何度もめくる。コーヒー、サイン、歩幅、決裁の字数、にんじん、龍井、親指が掌を押す小さな動作……一条ずつ取り出せば、「習慣が変わった」だけだ。だが並べれば——
並べれば、同じ一句を言っている。
この人間は、彼女ではない。
——第36頁——
今日、氷室硯から電話が来た。
引き出しのノートの話をしよう。お前の神楽社長は、本当か、と。
受話器を握り、手が持てないほど震えた。
六年前の雪の夜、会社の口座に最後の一ヶ月の給与しかなく、取締役が交代で詰め寄った。二十四歳の自分が、伝票の箱を抱え、二十歳の彼女と執務室で一晩、座った。夜が明けるとき、彼女は言った。
「星蘭、研究開発予算は止めない。この句を覚えろ。これから誰がこの席に座っても、何を言っても——この句が違ったら、その人間は私じゃない。」
当時は、仕事の申し送りだと思った。
今、分かる。六年前の雪の夜、二十歳の神楽檀は、六年後の自分に、灯を残していた。
——第43頁——
今日、氷室硯、湊と旧アパートで落ち合う。
あの子は十キロ以上痩せ、目だけが恐ろしく明るい。新しい携帯を抱え、中の六十三日分の偽造した姉弟チャットを見せ、一字一句言う。「僕が送ったんじゃない。」
氷室硯はその場で手はずを決める。金を払わせて、釣る。
任務を置く姿を見て、ふと、六年前の雪の夜、二十歳の神楽檀が執務室で、会社をどう救うか一筆ずつ算していたのを思い出す。
人を守る人間は、表情まで似ているらしい。
帰り、湊が訊く。
「七瀬の兄さん、姉さんは……戻ってこられる?」
ハンドルを握り、前の道を見て、言う。
「戻れる。」
「どうして分かるの。」
「姉さんは一度も負けたことがないからだ。」
言う。
「二十歳でも負けなかった。今は、なおさら。」
子が泣く。自分も泣きたいが、泣けない。特助だ。特助の決まりは、社長がいないとき、特助は折れない。
——第47頁(最終頁)——
今日の午後、携帯が一度、震えた。
一条の消息。「神楽社長」から。
【研究開発予算は止めない。】
席に座り、この七字を、まる一分見る。
それから泣いた。キーボードに伏して、馬鹿みたいに泣いた。周囲の同僚が慌て、手を振って大丈夫と言う——大丈夫なわけがない。
彼女だ。彼女だ。まだいる。
この七字は、あの灯が六十三日の闇を抜け、自分の手へ渡した返事だ。
檀さん、待っていろ。
お前がこの会社を六年守り、自分を六年守った——今度は、こちらがお前を守る。
【日誌、ここで終わる。最後の一行、筆跡が紙を貫く。】
【ノートを封じる。戻った。——七瀬星蘭】
*
【番外五・備忘録】
【氷室硯の私的備忘録。最初の一条は八年前。最後の一条は婚礼後。八年に跨り、二千九百余りの昼夜。原本は携帯の中。誰にも開いたことがない——婚礼の翌日、神楽檀が目の前で、一条一条、頭から尾まで読んだ。】
——一年目——
10月3日。
聞き出した。商学部、神楽檀、一年。今日は父親の誕生日。講堂の裏で電話し、「父さん、一位取った」と言う。切って、地面にしゃがんで泣く。寄れなかった。あとで知った。母親は早くに亡くなり、父親一人で彼女と弟を育てた。
覚えろ。毎年の今日は、遠くにいろ。見られたくない。
——二年目——
4月18日。
父親が亡くなった。突発の心筋梗塞。二十歳になったばかり。
葬儀へ行った。遠くに立った。黒い服、涙が一滴も落ちず、最初から最後まで全員を送り、弟の手を固く握っていた。散会後、人が空になってから回り、墓碑の前に一人跪き、肩が小刻みに揺れていた。
車の中で夜中まで座った。何もできない。
氷室硯、覚えろ。今日から、彼女の後ろに誰もいない。
6月30日。
神楽を継いだ。取締役七人が連名で反対。七人の内情を全部調べ、フォルダに入れ、出さなかった——要らない。最初の一週で、先頭のやつを言い負かした。
生まれつきの将だ。自分は、先に備えて逃げた兵だ。
——三年目——
1月9日。
初めて正面から競った。勝った。散会のとき傍を通り、「氷室社長、いい手だ」と言った。
自分を覚えた。
案件に勝って、一晩うれしかった。自分を覚えてくれたことが、今もうれしい。氷室硯、救いようがない。
9月2日。
空売り筋が入った。標的は神楽。帳簿の弾薬、二百億、いつでも入れる。倉橋慎がなぜと訊く。兵を練る、と言った。
何の兵だ。囲まれて殴られるのが、見られないだけだ。
——四年目——
3月15日。
城東の件に勝った。勝ち方が綺麗だ。祝勝の写真が流れ、杯を掲げ、薄く笑っている。写真は保存した。
11月27日。
胃出血で入院。消息は固く押さえられ、三日かけてどの私立病院か突き止めた。果物籠は倉橋慎に届けさせた。名義は「氷室グループ社員一同」。返礼は茶一箱。添え状。【氷室社長、ご丁寧に。商売は商売。】
茶は飲み切った。箱は残している。
——五年目——
6月8日。
南区、開札。見積もりを二十億、上乗せした。
倉橋慎と喧嘩した。気が狂った、と言われた。そうかもしれない。あの峠を越えなければ、神楽はない。神楽がなければ、ここ数年の命が無駄になる。
今日、祝勝で訊かれた。見積もりはおかしくないか、と。
檀、おかしい。お前を知った日から、俺の見積もりは全部、おかしい。
——六年目——
(この年の備忘録は、一条だけ。)
12月24日。
彼女が「死んだ」。
信じない。
——七年目——
1月から3月。
(備忘録は更新を止める。あの六十三日の記録は、別フォルダにある。名は『観察ノート』。)
3月17日。
戻った。病院の廊下で、俺を見た最初の一句は、「痩せたね。」
世界中が痛いか、怖いかと訊く。彼女だけが、痩せたかと訊く。
神楽檀、この生涯、お前に負けて、元は取れた。
——八年目——
9月27日。
討論の八周年。覚えているとは、知らない。今日は機嫌がよく、大きな契約にサインし、鼻歌を歌いながら俺の執務室の前を通った。歌は『月が私の心を表す』。音が外れている。
外れても、いい声だ。
12月24日、雪。
告白した。屋上で、案を三セット用意し、最後のセットも使わなかった。「デューデリ、通過。入株を認める。期限、永久」と言ったとき、雪が髪に落ち、思った。この生涯のすべての戦いの中で、一番徹底して勝った、と。
違う。彼女が勝った。俺を、勝って持っていった。
——求婚後、婚礼前——
5月20日。
ドレス合わせ。出てきた瞬間、呼吸を忘れた。似合うかと訊かれ、まあまあ、と言った。睨まれた。
似合う。泣きたいほど似合う。氷室硯、情けない。
——求婚後、婚礼前——
3月9日。
今日、湊と松山へ戻った。あの棟は封鎖され、少年は鉄門の外に一時間立っていた。帰り、車中で眠り、証拠をびっしり書いたハードカバーのノートを握っていた。
原本は警察へ渡し、コピーを自分で残した。精神科医になったら、このノートを診療室の一番目立つところへ置く——椅子の向かいの誰もが、かつて世界中に誤解された人間かもしれないと、自分に思い出させる、と言った。
いい子だ。檀、弟が大人になった。
お前たち姉弟が食べた苦は、これから俺が付き合い、少しずつ、甘いものへ換える。
——最後の一条、婚礼の夜——
5月18日。
今日、彼女が嫁いできた。
誓詞は自分で書いた。一句だけ。「氷室硯、これからの余生、お前の討論は全部受ける。」
備忘録はここで筆を封じていい。八年、二千九百余りの昼夜。討論台から婚礼の台へ。宿敵から愛人へ。
この戦いは元が取れたか、と訊かれる。
取れた。
この生涯、多くの相手に会い、多くの戦いに勝った。だがすべての勝利を足しても、八年前のあの午後には及ばない——
光の中に立ち、「一歩退く人間に、退路が最初からないなら?」と言った。
あの瞬間、分かった。
この人間には、退かない。生涯、一歩も退かない。
【備忘録・終】
*
【番外六・三百二十六枚の紙片】
鉄の箱は、今、旧宅の書斎の一番目立つ棚にある。
三百二十六枚の紙片を、神楽檀は一枚ずつラミネートし、年ごとに整然と積んだ。湊は重すぎると抗議し、姉の一句で押し返された。「神楽家の家宝だ。この扱いだ。」
婚礼後の最初の週末、姉弟が書斎にこもり、箱をもう一度開く。
「姉さん、これ。」
湊が皺くちゃの宿題用紙を抜く。
「中二で書いた——【姉さん、今日の模試、学年で九位。約束のスニーカーは?】あとで買った?」
「買った。」
神楽檀は顔を上げない。
「中三の誕生日、ベッドの下の靴箱、自分で忘れたんでしょ。」
「あ、そうだ……じゃあこれ? 【姉さん、大きくなったら弁護士になって、姉さんの裁判をやる。】」
「これ、覚えてる。」
笑う。
「結果、今は心理を学んで、何が病で何が罪か、見分けたい、だって。」
「行き方は違っても、着く先は同じだよ。」
少年が頭を掻く。
「どっちも、姉さんの代わりに戦うことだ。」
一番下まで翻ると、松山の六十三日に書いたものだ。紙は粗く、字は震え、一枚一枚、闇の中から鑿で出した光だ。姉弟は見ていて、どちらも黙る。
長くして、湊が蓋をし、ふと言う。
「姉さん、ここに、まだ一枚足りない。」
「どれ。」
「姉さんの。」
少年が見つめる。
「この三百二十六枚、全部僕が姉さんに書いた。姉さんは一枚も返してない。」
神楽檀が呆然とする。
そうだ。十三年、弟は三百二十六枚の紙片を書いた。返したのはスニーカー、ベッドの下の靴箱、保護者会のあとの褒め、毎晩の「姉はいる」——紙だけは、一枚も返していない。
その夜、書斎に遅くまで座る。
それから無地のカードを出し、筆を執り、この箱の第三百二十七枚を書く。
【湊へ。
三百二十六枚、全部受け取った。十三年遅れて返事を書くのは、姉が悪い。
中の六十三日、怖かったか、と訊いたね。
怖かった。でも今は怖くない。どれほど暗いところにいても、誰かが紙片を一枚ずつ書いて、一日ずつ帰宅を待っていると、分かっているから。
小さい頃、父と母が逝ったとき、お前を抱いて「天が落ちても姉さんが上」と言った。後半は、ずっと言っていなかった——
姉も、大して大きくない。姉も怖いし、疲れるし、持ちこたえられない。お前が書いてくれた一枚一枚が、代わりに支えてくれた。
だから、湊、ありがとう。
弟でいてくれて、ありがとう。
手放さなかったこと、ありがとう。
——姉】
弟が深く眠ってから、紙片を鉄の箱の一番上へ、そっと入れる。
——
数日して、氷室硯が旧宅へ食事に来る。
食後、神楽檀が電話を取りに行き、彼一人が書斎で待つ。視線が鉄の箱に落ちる。鍵はかかっていない。一瞬ためらい、それでも開ける——三百二十七枚、一枚も動かさず、一番上の一枚だけを静かに読み終える。
読んでいるうち、交渉卓で決して乱れない男の目尻が、ゆっくり赤くなる。
スーツの内ポケットから常に持ち歩く万年筆を出し、書斎の付箋から小さな紙を引き、考えて、一画一画書く。
【第三百二十八枚。
面識のない亡き義父、義母へ、この箱へも書く。
こんなにいい二人を、この世界に残してくれて、ありがとう。
前の二十六年、俺は外した。これからの毎年、俺が代わりに見る——
湊が大きくなり、家を持ち、なりたい人間になるところを。
檀が、毎日、今日みたいに笑うところを。
この箱は、俺が代わりに拭き続ける。歩けなくなるまで拭いて、次の世代へ渡す。
言ったことは、守る。
——氷室硯】
紙片を折り、折り、また折り、箱の一番底へ、三百二十七枚の下へ、そっと入れる。
蓋を閉じ、元の場所へ戻し、何事もないようにソファへ座る。
——
湊が学期を始めると、旧宅はかなり静かになる。
だが毎週金曜の夜、呼び鈴が定刻に鳴る。少年が鞄を背負って入り、最初に冷蔵庫を点検する——牛乳は飲まれたか、果物は新しいか。二番目に書斎へ滑り込み、鉄の箱を見る。
「姉さん、第三百二十八枚、見た?」
とっくに気づいていて、長く黙って、ついに訊く。
「見た。」
「じゃあ……僕の第三百二十七枚、義兄さんは見た?」
「見た。」
神楽檀は顔を上げず書類を処理する。
「お前たち、家宝の中で裏を回して、この一家の主は飾りだと思ってるの。」
「へへ。」
湊が寄る。
「なら決まりとして、義兄さんは毎年一枚足す。姉さんは?」
「気が向いたら。」
「だめ!」
少年がきっぱり言う。
「家宝には家宝の決まりがある——こうしよう。毎年大晦日、全員が一枚足す。僕が先に敬意を示す!」
本当にその場で一枚書き、鄭重に箱へ入れる。神楽檀が一目盗む。
【第三百二十九枚。今年、奨学金を取った。姉さん、義兄さん、恥はかかせてない。——そうだ、寮の連中が、卒業したら神楽で働きたいって。代わりに訊くけど、裏門は並ぶ?】
神楽檀は呆れて笑い、裏面に二字、書きつける。
【並べ。】
何日もして、神楽檀が箱を整え、この余分の、四角く折られた小さな紙片を見つける。
開き、読み終え、書斎に長く、長く立つ。
それから紙片を持って居間へ行く。氷室硯は湊と将棋を指し、弟に潰され、頭を掻いている。
「氷室硯。」
「ん。」
紙片を目の前で揺らす。
「第三百二十八枚。誰が家宝に勝手に手を出した。」
氷室硯の耳がさっと赤くなる。
「俺は……」
「よく書けてる。」
神楽檀は紙片を畳み、箱へ戻す。戻すとき、わざと位置を変える——第三百二十七枚の上、一番目立つところへ。
「罰は、」
振り返り、背を向け、声に隠しきれない笑いがある。
「これから毎年、一枚足せ。」
「書けなくなるまで。」
その年の大晦日、一家三人で書斎を囲み、本当に「一人一枚」の新年の儀式を始める。湊は学業、氷室硯は会社、神楽檀は日常。書き終え、三枚を重ね、鉄の箱へ入れる。
窓の外で花火が上がる。湊がふと言う。
「姉さん、この箱、百年後どうなると思う。」
「博物館に入る。」
神楽檀が言う。
「館名は考えてある——」
少年が口を割って笑う。
「神楽の灯の記念館。誰かのために灯を残した人を、専門に収める。」
窓の外、金木犀の影が夕陽の中で軽く揺れる。
鉄の箱は書斎の棚に静かに立ち、三百二十八枚の紙片を入れ、十三年の姉弟、八年の見張り、失って取り戻し、もう二度と失くさない——
人間の、全部を、入れている。




