第47話 番外・余生は、松の香
三年後。
澄江の晩秋、山腹の別荘の全面ガラスに金木犀の光が砕ける。
神楽檀は出窓の絨毯に座りこみ、案件の表を繰る。傍に神楽の最新の研究開発データが広がり、指先がたまに止まり、親指が無意識に掌を押す。
後ろから足音が緩く落ち、雪松の冷たいカシミヤのブランケットが肩へかかる。
氷室硯が腰を曲げ、片手で窓枠を支え、広げた頁を俯いて見る。
「昨夜、休むと約束したのに、また隠れて仕事だ。」
神楽檀が目を上げる。かつての商戦の鋭さは目底になく、淡い笑いが乗っている。
「締めの小さなことよ。山へ付き合うのは、遅れない。」
今は合法の新しい身分で穏やかに暮らしている。香月潤の件は塵が定まり、蠱師と邪術に関わる者は全員、網に落ちた。残った蠱の紋は、二人の運命が縛り合う中で消え、返りを食う激痛はない。
香月潤は終身刑で、狭い高い壁の中に閉じ込められ、かつて盗んだ華やかさにはもう触れられない。神楽湊は復学して大学院生になり、毎週、定めて二日、山へ泊まる。姉弟が療養院の鉄門越しに遥かに見合う日は、もうない。
氷室硯は身を起こし、そのまま傍の絨毯に座り、長い脚を伸ばし、手を伸ばして平板を取り上げ、脇の茶卓へ置く。
「神楽は今、七瀬が全盤を受けている。一筆ずつ、自分で見る必要はない。」
神楽檀は争わず、彼の傍へ寄り、鼻先がシャツの袖口の松の香を掠める。
あの換面の劫は、宿敵が深淵から引きずり出してくれた。自分の運命で残った蠱を受け、禍福を共にする約束を、一分の狂いもなく果たした。
五年、針で突き合った相手が、最後は唯一の避難になった。
「そういえば、あの頃、雲頂の個室で、最初から私だと分かってたんでしょ。」
ふと口を開く。
氷室硯の指先が垂れた長い髪を梳き、動作は遅く優しい。商いの殺伐とは別人だ。
「掌を摘んだ瞬間、心に見当はあった。」
「なら、なぜ直接、暴かなかった。」
「証拠がなく、軽々しく口を開けば香月潤を追い込み、お前と湊をまた傷つける。」
目を伏せ、鎖骨を見る。かつての黒い紋は消え、細かい白い肌だけが残る。
「それに、お前が自分から打ち明けてくれるのを、待っていた。」
神楽檀は軽く笑い、指先で腕を突く。
「氷室社長は長い線がお上手。人心まで局に入れる。」
「お前に対してだけ、計画が全部崩れる。」
氷室硯が手を握り、指腹が手首の古い薄い繭を撫でる。
「蠱の痛みの中でお前が支えるのを見たとき、初めて勝ち負けも利害も分からなくなった。何も起こさせたくなかった。」
数年絡んだ商業の駆け引きは、換面の蠱が真相を開いた日から、味がまったく変わった。
窓の外から軽い足音がし、神楽湊が炒り栗の袋を提げて入る。寄り添う二人を見て足が止まり、近づかず、紙袋を居間の茶卓に置き、低く呼ぶ。
「姉さん、義兄さん、栗、買ってきた。」
神楽檀が振り返って手招きする。
「こっち、座りな。」
少年が歩き、反対側の一人掛けへ座り、袋を開けて栗を剥き、温かい実を神楽檀の掌へ渡す。
「来週、研究室が市外調査で、隣市へ一週間。行く前に旧宅の鍵、書斎の引き出しに入れておいた。」
「気をつけて。何かあったらすぐ電話。」
神楽檀が念を押す。
氷室硯がタイミングよく一句入れる。
「向こうの支社に人脈がある。何があっても、俺の名を出せ。」
神楽湊が目を上げ、組んだ手を一目見て、目尻を曲げる。
三年前の対峙で、氷室硯が何も顧みず姉を護るのをこの目で見た。のちに資源を傾けて邪術の禍根をすべて片付け、姉弟を護った。心の中では、かつての商界の相手への警戒を、とっくに置いている。
以前は、昔の相手に嫁げば姉が損をするのではないか、とばかり心配していた。今見れば、この男は羽の下へきちんと護り、苦を半点も触れさせない。
「そうだ、七瀬副社長から今、消息。来週の周年業界サミット、神楽と氷室が同じ台で発言するって。」
神楽湊が口を挟む。
神楽檀が眉を上げ、傍の男を見る。
「また同じ台で、風を争うの。」
氷室硯の口角が浅い笑みを上げ、手を伸ばして頬を摘まむ。
「今は案件を奪い合って高下を分けない。サミットの原稿は補佐にまとめさせた。神楽・氷室の共同、新エネルギーの産業チェーン、口径は一つ。お前が研究開発の計画を主に話し、俺が市場の配置を補う。」
かつては頭を割って争った南区の地が、今は二社で共同開発し、澄江最大の新エネルギー産業園になった。互いに利し、かつての宿敵が殺し合う場面は、もうない。
神楽湊は栗を食べ終え、紙袋を片付けて立つ。
「部屋へ行って荷物を整える。二人の世界は、邪魔しない。」
居間に二人だけ残り、静かに金木犀の香が落ちる。
神楽檀は氷室硯の肩に寄り、あの頃一番みっともなかった記憶を静かに出す。
「香月潤の身体にいたとき、蠱の痛みが来るたび、お前に近づくとしか和らぎがなくて。ずっと、わけが知りたかった。」
氷室硯が手を上げ、手首の内側に、ほとんど見えない細い痕を見せる——かつての残った蠱を受けた印だ。
「蠱は運命を見る。俺たちの運命は長年、鋒を交えて絡み、気配が生まれつき邪虫を制する。当時は自分でも、この皮でお前の劫を担う日が来るとは、思わなかった。」
「あのとき、怖くなかった? 残った蠱が返りを食って、運勢を折るかもしれないのに。」
「対等に手を合わせられるお前を失うのに比べれば、運勢なんか、取るに足りない。」
俯き、額を額に当て、呼吸が絡む。
「昔は勝つことだけ考えていた。あとからは、護ることだけ考えた。」
婚礼は極く簡素で、ごく近い親族と七瀬星蘭ら腹心だけを招き、商界の派手な宴はなかった。
入籍の日、区役所の職員が身分を照合し、資料の多年の競争記録を見て、つい二度見る。
「お二人、毎年入札でぶつかって、よく一緒になりましたね。」
氷室硯はそのとき彼女の手を握り、篤く答えた。
「五年争って、ようやく自分の人間を取り戻した。」
神楽檀はその日の光景を思い出し、目底に暖かさが広がり、自ら手を上げて首に腕を回す。
氷室硯はそのまま横抱きにし、二階の寝室へ歩く。歩幅は安定している。
「休暇の行程は組んだ。山の民宿だ。仕事の消息は一切なし。オーロラだけ、見せる。」
かつての姉弟、十八歳の約束は事情で三年、棚上げされた。今、氷室硯が一つ一つ、補う。
神楽檀は腕の中に寄り、鼻先は安定した松の香ばかりだ。
かつて身は死に魂は砕け、他人の皮の中で一人で戦い、この生涯は尽きない引きと痛みだけだと思っていた。
水と火のように相容れない宿敵が、蠱術の陰謀、真偽の皮、千尋の深淵を越え、細かい習慣の全部を守り、傷の全部を受け、これからの歳歳年年を、優しい松の香へ醸したとは、知らなかった。
夜、山の星が空に満ち、民宿の露台に藤椅子が二脚、並ぶ。
神楽檀は厚い上着に包まれ、氷室硯の胸に寄り、遠くに広がるオーロラの緑の帯を見る。
指先が無意識にまた掌を摘み、動作をした瞬間、氷室硯が手を伸ばして掌を優しく包み、温かい掌が力をほどく。
「もう、無理に支えなくていい。」
神楽檀は横を向き、首筋へ顔を埋め、小さく応える。
蠱に噛まれる激痛はない。身分が裂ける恐慌もない。頼る者のない絶望もない。
傍は、あの頃ただ一人護ってくれた宿敵。前は、何年もかけて果たしたオーロラ。後ろは、無事に大きくなった弟。手の中は、しっかりと握った余生。
泥濘の過去はすべて頁を閉じ、これからの一日一日は、すべて穏やかだ。




