第44話 番外一・鏡
死刑執行猶予から無期懲役への裁定が下りた日、香月潤は静かだった。
刑務所の暮らしは、留置場より規則正しい。六時起床、七時出役、夜九時消灯。彼女は縫製工場でミシンを踏み、一日十時間、指先の繭が何層も入れ替わる。
入所三ヶ月目、香月建が面会に来た。
ガラス越しに、五十過ぎの男が老いの涙を流して泣く。
「潤や、父さん、すまなかった……賭けなんかしなきゃよかった……恨むなら、父さんを罵れ……」
香月潤は彼を見る。
泣きかけ、香月建は顔を拭き、声を落とし、受話器へ寄る。
「あのさ……潤、父さん、中でお前の態度がいいって聞いた。減刑できるって。あの賠償金……裁判所、お前に返還を命じただろ。父さんの考えだと、中じゃ金も要らんだろ。父さんは外で苦しい。刑務官に頼んで、中の手当を、父さんの口座へ……回せないか……」
ガラスのこちら、香月潤は静かに聞き終える。
「父さん。」
口を開く。今日、最初の一句だ。
「おう! 娘!」
「この前、弁護士に託した言葉、届いた?」
香月建の顔色が変わる。
「あれは……あれは、腹いせだろ! 親子に夜を越す恨みなんて——」
「私に、父はいない。」
香月潤は一字一字言う。
「お前が私の話を五十万円で売ると言った日から、いない。」
立ち上がり、面会終了のベルを押す。
後ろで香月建がガラスを叩き、罵りがガラス越しに鈍く届く。
「恩知らず! 育てた甲斐がない! お前の死んだ母親と同じ——」
香月潤の足は止まらない。
*
監区の洗面の壁に、ステンレスの鏡が嵌まっている。
毎晩、顔を洗うとき、香月潤は鏡の前にしばらく立つ。
鏡の中の人間は、自分だ。痩せ、青白く、目尻に細い皺、髪は短く切られている。これが彼女の顔——一度焼かれ、因果で返ってきた、元の顔。
最初は、見るのが怖い。
二十六年、他人の屋上を見て、六十三日、他人の皮を被り、自分の顔をほとんど忘れていた。この曇った金属の鏡で初めてちゃんと自分を見たとき、彼女はぞっとした——この顔の眉骨は、母親とそっくりだった。口を結んで笑わないとき、口角は生まれつき少し下がり、大きな恨みを受けたみたいだった。
この顔を、一日も、ちゃんと見ていなかった。
今は毎日見る。朝見て、夜見る。長く見ていると、この顔もそこまで醜くない。たまに何かで笑うとき——工場の評価で一位を取ったとき、夜の差し入れに卵が一個ついたとき——鏡の中の両目が、少し見知らぬほど明るい。
それは香月潤自身の光だ。誰からも借りず、誰からも盗まない。
刑務所に識字教室がある。
刑務官が彼女の学歴が一番高いのを見て、小さな教員になって、字を読めない年寄りたちに教えてくれないか、と訊く。香月潤は引き受けた。
教室で一番年長の受講者は笹野花、六十二歳。字が読めず、自分の名前すら書けない。
少し親しくなってから、香月潤は彼女の話を知った。笹野花は若い頃、人買いに拐された。逃げて身寄りがなく、廃品回収の男と暮らし、男は三十年、殴った。最後の一度、まな板の包丁を取り上げた。
「娘さん、字が読めなくて、大きな損をした。」
老人がなぞり書きをしながら言う。
「判決が出て署名しろと言われても、自分の名前が書けず、拇印を押した。あのとき思った。自分の名前が書けたら、一人前の人間だ、って。」
「誰かに手紙を書きたい?」
香月潤が訊く。
老人は長く考える。
「娘に一通。生まれてすぐ、あの家の人間が人へ出した。この生涯、抱いた回数は少ない。認めてほしいんじゃない。娘に知らせたい——母親は悪人じゃない。母親は、自分の名前が書けるようになった、って。」
香月潤はチョークを握り、黒板の前に長く立つ。
その日から、教え方がさらに厳しくなる。毎日、仕事のあと一時間、課外。手を取って画数を直す。喉が枯れ、指先の繭が擦り切れても、黒板の字が一日ごとに増えるのを見て、心に今までなかった、地に足のついたものが生まれる。
それは快感ではない。算段でもない。
用だ。この人間にも、用がある。
香月潤は「一、二、三」から教え、四ヶ月。ある日、笹野花が震えながら、紙に自分の名前を書く。
三字、歪んで、毛虫が三匹。
老人はその紙を捧げ、何度も見て、突然号泣する。泣き終え、香月潤の手を掴み、裏表と見る。
「娘さん、こんなに字が書ける……教えてくれる……」
「娘さん、」
濁った目が彼女を見て、一字一字言う。
「あんた、人として、いい。」
轟と、音がする。
香月潤はその場に立ち、雷に撃たれたみたいだ。
あんた、人として、いい。
二十六年。彼女は二十六年生き、「恩知らず」を聞き、「金食い虫」を聞き、「クラスメイト、知り合いでしたっけ」を聞き、法廷の冷たい判決を聞いた——この四字は、一度も聞いたことがない。
この四字は、誰の娘だからでも、美しいからでも、誰の皮を被り、誰の席を占めたからでもない。
老人に名前を書けるように教えたからだ。香月潤、自分、自分の手で、正しいことを一つしたからだ。
その夜、洗面の金属の鏡の前に、長く、長く立つ。
鏡の中の女は、目が赤く、口角に拙くて不慣れな笑みがわずかにある。鏡に向かい、小さく、試しに言う。
「香月潤。」
自分の名を呼ぶ。鏡の中の人間も、それに応える。
「香月潤、」
もう一度言う。声が少し大きい。
「人として、いい。」
鏡の内外、二人の「香月潤」が一緒に笑う。窓の外の月が差し、ステンレスの鏡面に落ち、薄い繭だらけの手にも落ちる。
路はまだ長い。死刑執行猶予、無期、これから十数年、二十数年の高い壁が残るかもしれない。
だが、構わない。
名前は香月潤。今年、二十七歳。字が書け、ミシンが踏め、他人に字が教えられる。自分の顔があり、やっと取り戻した、自分の名前がある。
今度は、この顔で、日を一日一日、ちゃんと生きていく。




