第43話 義兄さんは分かってる
三日目の夜、空は本当に晴れた。
夜の十時、ヨークのオフロード車が雪原の奥へ突っ込む。降りた瞬間、全員が顔を上げ、もう一言も出ない。
オーロラが、来た。
最初は一筋、淡い緑。深い青の天幕に、誰かが息をかけたみたいだ。それから、空の奥で誰かが幕をゆっくり引くように——空全体が燃え始める。
緑の光帯が地平から奔り上がり、翻り、伸び、舞う。紫紅の縁が緑の光の中を流れ、絹のようで、炎のようで、空を横断する光る河のようだ。光帯が頭上を掃くとき、氷晶みたいな細かい音まで聞こえる。
二人は雪原に並んで立ち、顔を上げ、長く何も言わない。
「氷室硯、」
神楽檀がふと口を開く。
「八年前、討論の日、向かい側に座って、何を考えてた。」
氷室硯は考える。
「終わった、と。」
「終わった?」
「ああ。お前が立って最初の一句を言ったとき、頭の中は二字だけだった——終わった。」
笑う。
「案の定、終わった。試合に負け、八年を突っ込み、今は人間まで突っ込んだ。」
「後悔してる?」
「推測しろ。」
神楽檀も笑う。オーロラが頭上を流れ、緑の光が二人の顔に明滅する。
「中にいたとき、」
彼女は静かに言う。
「最後の数日、実はお前の声が聞こえた。壁一枚越しに、『俺はいる』って。」
「ああ。」
「あのとき思った。——この人、五年も戦って、今日になってやっと分かった。世界で一番、私を分かってる人だ、と。」
振り返って彼を見る。
「氷室硯、私たち、二人とも鈍い?」
「ああ。」
氷室硯は坦然と認める。
「片方は『宿敵』を言い訳に、片方は『仕事』を盾にした。臆病者二人で、八年、遠回りした。」
「でも、」
神楽檀は手を彼の掌へ入れる。
「戻ってきた。」
「願いを掛けろ。」
氷室硯がどこからか小さなケーキを出し、一本の蝋燭が刺さっている。雪原の風は強く、彼は体全体で小さな港を作り、火を囲む。
「檀、誕生日おめでとう。」
蝋燭の光がオーロラの下で灯り、小さなひと房、執拗に消えない。
神楽檀は光の中に立つ。
頭上は燃える空、足元は限りない雪原、眼前は蝋燭を囲み、目の中が彼女でいっぱいの男。二十六の誕生日は闇の中で過ごし、二十七のこの一年は死んで生き返った——今、世界の果てに立ち、失って取り戻した人間の全部を、持っている。
目を閉じ、願う。
一つ目は湊へ。一生、平安で思いどおりでありますように。求めるものが願いどおり、行く道が坦々でありますように。
二つ目は会社へ、守ってくれた人たちへ。神楽の事業が長く続き、善良な人が裏切られませんように。
三つ目——
心の中で、一字一字、黙って唱える。
「私が、向かいのあの人を、生涯、勝たせますように。」
「あいつは八年負け、八年譲り、八年守った。これからの毎年は、私が勝たせる。勝たせたいのは、私一人だ——やる。全部、やる。」
目を開け、蝋燭を吹き消す。
「何を掛けた。」
氷室硯が訊く。
「言わない。」
神楽檀は笑う。
「言ったら、効かない。」
「じゃあ、推測する——」
「当たらない。」
爪先立ち、満天のオーロラの下で彼に口づける。
「氷室硯、オーロラはきれい。」
「ああ。」
「でもお前のほうが、きれい。」
赤ひげのガイドはオフロード車の傍で、ごく自然に背を向け、タイヤを調べるふりをする。
*
帰国の機内、動画電話が入る。湊だ。
少年が向こうでがやがや言う。
「姉さん! 義兄さん! トレンド入ったよ! 『オーロラ求婚』——違う、『オーロラ誕生祝い』! 写真、うますぎる!」
話しているうち、湊が急にこそこそ言う。
「そうだ姉さん、一事がある。心理学科に作文の授業があって、先生が物語を書けって。お前たちのことを書いた——もちろん、仮名! そしたら先生がクラス最高点くれて、しかも……出版社に推したいって。」
神楽檀は失笑する。
「私たちを書いたの。」
「書いた! 姉さん、この話、書かないと惜しい。」
湊が興奮する。
「書名まで考えた。ぴったりで——」
喉を鳴らして、一字一句読む。
「『顔を替えられたら、宿敵だけが私を守る』!」
機内が二秒、静かになる。
「神楽湊。」
神楽檀が額を押さえる。
「その名前、土くさいのが、うまい。」
「土くさい?!」
少年は不服だ。
「正確だろ! 顔を替える——宿敵——だけが守る! 要素、全部ある! 義兄さん、言って!」
氷室硯が真面目に頷く。
「正確だ。とりわけ『だけが守る』の四字、我が意を得る。」
「見た! 義兄さんは分かってる!」
電話が切れ、機内が再び静かになる。舷窓の外、雲海が万メートルの下に広がり、陽が惜しみなく差し込む。
神楽檀は氷室硯の肩に寄り、ふと言う。
「実は、あの名前、嫌いじゃない。」
「ん?」
「顔を替えられたら、宿敵だけが私を守る。」
目を閉じ、声がゆっくりになる。
「湊の書き方は正しい。お前たちがいなければ——弟、星蘭、駒井伯父さん、稲垣隊長、それからお前——私一人では、あの六十三日から出られなかった。」
「この世界には、闇の中で手放さない人が、いつもいる。」
彼女が言う。
「誰かのために灯を残す人も、いつもいる。」
氷室硯は俯き、髪の頂に口づけを落とす。
「寝ろ。」
言う。
「着いたら起こす。」
機は雲を抜け、東へ飛ぶ。舷窓の陽は温かく明るい。あの朝に似て、江辺の日の出に似て、これから一緒に過ごす、明るい日々のすべてに似ている。
——
闇の中で手放さなかった、すべての人へ。
そして、誰かのために灯を残した、すべての人へ。




