第42話 オーロラの都
求婚の翌月、氷室硯は一枚の行程表を神楽檀の前に置いた。
「トロムソ。」
言う。
「北緯六十九度、オーロラの都。誕生日の贈り物だ。前倒しで。」
神楽檀が眉を上げる。
「誕生日は、まだ半月ある。」
「だから先に行く。」
氷室硯は真面目だ。
「オーロラは、暦を見ない。こっちが、待つ。」
——
出発の日、湊が見送りに来る。
少年が大きなリュックを神楽檀に押しつける。
「姉さん、必須物資。」
開ける。カイロ四十枚、しもやけの軟膏、保温ボトル。手書きのカードが一束。日付が書いてある。
「一日、一枚。」
湊が顔をこわばらせる。
「先に見るな。」
一枚目は搭乗前に開く。【姉さん、オーロラが見えなくてもいい。二人とも、無事に帰ってこい。——本音は義兄さんが無事ならいい。あいつに何かあったら、姉さんが北極を壊しそうだから。】
氷室硯が寄って読み、二秒黙る。
「この小僧、お前のこと、ますます分かってるな。」
「当たり前。」
神楽檀はカードをしまう。
「弟だもの。」
十数時間の飛行、オスロ乗換。神楽檀は半分ほど眠る。目が覚めると、肩に氷室硯の上着がかかっている。彼は薄暗い読書灯で書類を見ている——南区プロジェクトの四半期報告だ。
「ハネムーンで書類?」
眉を寄せる。
「婚前の財産だ。」
氷室硯は顔を上げない。
「今から、全部お前のものだ。ちゃんと見ておかないと。」
神楽檀は上着を彼の肩へかける。
「じゃあ、一緒に見る。」
トロムソの冬は、昼がわずか数時間しかない。
最初の二日、曇りばかり。
ガイドのヨークは赤ひげのノルウェー人で、改造したオフロード車で二日、追いかけた。毎日、夜中の雪原で待つ。雲は布団みたいに厚い。二日目の午前三時、二人は寝袋に縮こまり、熱いコーヒーを分け合う。神楽檀の鼻が赤く凍っている。
「氷室硯、この旅で見えなかったら、どうする。」
「見えなければ、次だ。」
氷室硯がコーヒーを渡す。
「どうせ、これから先は長い。」
「呑気ね。」
「呑気じゃない。」
彼は天辺でうねる雲の海を見て、ふと言う。
「檀、見ろ。九千キロ走って、マイナス二十度の雪で二晩待って、空が一瞬、光るのを待つ。」
「そんなに遠くへ来て、一瞬でも光れば、元は取れる。」
神楽檀は振り返って彼を見る。雪原の風の中、この男の横顔は熱いコーヒーの白い息でかすみ、声は軽いが、安定している。
彼が言っているのは、オーロラだけではないと、ふと分かる。
八年前、討論台での一面。五年の商戦。六十三日の闇。九千キロの雪原——すべての赴き、すべての見張りは、命の中で「一瞬、光る」瞬間を待つためだった。
「うん。」
彼女は彼のほうへ寄り、頭を肩に乗せる。
「元は、取れた。」
光を追う合間、北極圏のこの小さな街を二人で歩き尽くす。
ロープウェイでストールスタイネンの山頂へ。四百メートル余りから見下ろすと、トロムソ全体が雪山とフィヨルドのあいだに横たわり、色とりどりの小さな家が、黒いベルベットに撒いた砂糖菓子のようだ。山頂の風は人を転がすほど強い。神楽檀のマフラーがはためく。氷室硯が手を伸ばし、彼女ごと自分のコートへ包む。
「これ、何に見える。」
彼が俯いて訊く。
「何に?」
「一世帯、だな。」
神楽檀は風の中で声を出して笑う。
下山して北極大聖堂へ。白い三角形の建物が橋の向こうに立ち、小さな氷山のようだ。聖堂の中に観光客はほとんどいない。三角形のステンドグラスから極地の微光が入り、互いの呼吸が聞こえるほど静かだ。二人は最後列にしばらく座る。誰も話さない。
出るとき、神楽檀がふと言う。
「婚礼の司会は、湊に頼む。」
「あいつ、やれるか。」
「やれる。」
彼女が言う。
「弟だもの。どこでも、やれる。」
三日目の昼、ヨークが氷上釣りへ連れていく。
凍った湖面に穴を開け、糸を垂らして、午後いっぱい座っていればいい。神楽檀は着膨れして身動きが取れず、氷の穴を見つめ、十分に一度訊く。
「魚は?」
「釣りというのは、」
ヨークが訛りの英語でゆっくり言う。
「魚が来るんじゃない。お前が待つんだ。待っているあいだ、心を静かに。」
氷室硯が横で訳し終え、一句足す。
「聞いたか、神楽社長。心を静かにしろ、と。」
「静かよ。」
神楽檀は不服だ。言い終わるか終わらないか、糸がぐっと沈む。
「掛かった、掛かった——」
手を忙しくして巻き、銀のタラが氷を破って出て、氷の上で跳ねる。魚を掲げて振り返り、目尻を曲げて笑い、鼻先は真っ赤で、子どもみたいだ。
氷室硯はカメラを掲げ、この一幕をレンズへ収める。
その夜、キャンプでそのタラを焼く。ヨークは酒が少し入り、口が多くなり、オーロラの伝説を話す。
「北の年寄りは言う、」
赤ひげのガイドが焚き火を見て、ゆっくり言う。
「オーロラは、逝った人が地上を見に来る足跡だ。」
「遠すぎて、戻れない。だが地上の人間が惜しくて、空の端を歩く。一歩ごとに光る。緑、紫、赤——『見てるぞ、ちゃんと生きろ』、と言っているんだ。」
焚き火がパチパチ鳴る。
神楽檀が顔を上げる。雲がいつ裂けたのか、薄い星が漏れてくる。
父と母を思い出す。霊堂の写真。氷室硯が写真の前で「彼女じゃない」と言った姿。
「見てる。」
氷室硯が彼女の手を握り、低く言う。
「おじさんも、おばさんも、見てる。」
神楽檀は握り返す。指先は冷たく、掌は温かい。
「氷室硯、」
彼女は静かに言う。
「明日、晴れなら、オーロラに追いつける?」
「ああ。」
彼は天辺の雲の裂け目を見る。目に焚き火が映る。
「予感がある。」
「明日は、必ず晴れる。」




