第41話 求婚
求婚は、一年後の秋。澄江大学、討論部。
その日、神楽檀は「騙されて」行った。討論部の指導教員が自ら電話をかけ、創部記念をやる、あの「伝説の四番」に審査へ戻れ、と言った。神楽檀は快く応じた。
階段教室の扉を押すまで。
黒板に記念の流れはない。大きな字が一行、あるだけだ。
【論題:神楽檀氏は、氷室硯氏に嫁ぐべきか】
客席は埋まっている——討論部の現役、白髪の指導教員、ひまわりの種を噛む湊と寮の全員、慈しげに笑う駒井恒、腕を組んで目が真っ赤な七瀬星蘭。
正方一番の席に、氷室硯が座っている。
正装、姿勢を正し、前に討論の原稿が整然と置いてある。
「神楽檀、」
立ち上がり、真面目だ。
「反方の席は、そちらだ。どうぞ。」
神楽檀は入口に立ち、黒板を見、彼を見、ふと分かる。深く息を吸い、鞄を傍へ渡し、本当に歩いて行き、反方一番の席に座る。
「いいわ。」
言う。
「氷室硯、付き合ってあげる。」
試合、開始。
正方の立論。氷室硯が立ち、スーツは真っ直ぐ、言葉はよく通る。
「議長、ありがとう。当方の見解。神楽檀氏は氷室硯氏に嫁ぐべきである。理由は三つ。第一、八年のデューデリ、データは揃っている。第二、四点七ポイント、株を護った誠意、永久に減らさず。第三——」
一拍置く。
「第三、当方は、生涯を用意した。」
反方の質疑。神楽檀が目を上げる。
「相手に訊く。八年のデューデリと言った。期間中、対象は知っていたか。デューデリか、盗撮か。」
満場、爆笑。
氷室硯は顔色を変えない。
「手続の瑕疵、実体の正義。」
「相手、」
神楽檀は攻め続ける。
「婚姻は買収ではない。買収ならデューデリできる。婚姻に八年かけるのは、何を示す。対象が優秀すぎて、得を患い失を患い、自信が足りない、ということだ。」
「自信は、足りている。」
氷室硯が言う。
「恐れているのだ。」
応酬が続き、舌戦だ。客席、拍手と笑いが止まない。湊の口笛が天を震わせる。
総括の段、氷室硯は原稿を持って立つ。
手元の原稿を見、向かいの人間を見る。見ているうち、ふと原稿を置く。
「議長、皆様。」
ゆっくり口を開く。
「規則なら、今、当方の見解をまとめ、審査の支持を取る。だが——」
「八年前、この教室の隣の講堂で、俺は一試合、負けた。あの試合、切り札を用意していた。使わなかった。向かいの人間が、勝利の全部を譲るに値すると、分かったからだ。」
「八年、数えきれない戦いをした。商いの、口の。一度も勝っていない。本気で勝とうとも、一度も思っていない。」
「今日の論題は、長く用意した。」
神楽檀を見て、一字一字言う。
「だが今、宣言する——正方、降参する。」
満場が騒ぐ。
「論題そのものが、間違っていたと気づいたからだ。『彼女は俺に嫁ぐべきか』は、討論が決めることではない。観客の投票でもない。俺が勝ち取るものでもない——」
スーツの内ポケットから深い青のベルベットの箱を出し、台上から一歩ずつ下り、目の前に来て、片膝をつく。
「彼女が、一人で決めることだ。」
箱が開く。
指輪は簡素だ。プラチナの輪、ダイヤはない。内側に二字。
弁友。
「神楽檀、」
氷室硯は顔を上げて見る。目が、星の河を盛っているみたいに明るい。
「八年前、俺たちは弁友だった。五年、宿敵だった。これからの生涯——」
「俺の弁友でいろ。勝てばお前のもの、負ければ俺のもの。家の事は、永遠にお前が上に立つ。外の事は、永遠に俺が裏を取る。」
階段教室が、針の落ちる音まで聞こえるほど静かだ。
神楽檀は彼を見て、長く、長く見る。それから左手を伸ばし、わざと反方の体を作り、ゆっくり口を開く。
「反方、宣言する——正方の降参を、受ける。」
「罰則。正方は反方と生涯、縛られる。途中棄権は、認めない。」
轟と、満場が炸ける。口笛、拍手、囃し。指導教員が眼鏡を外して涙を拭き、湊が椅子の上へ跳ぶ。
指輪がはまった瞬間、神楽檀は内側の二字を一目見て、ふと氷室硯の耳へ寄る。
「そうだ、秘密を一つ。」
「何だ。」
「八年前の決勝、」
狐みたいに笑う。
「第三の論点、あの穴——わざと残した。」
氷室硯の瞳孔が震える。
「何?!」
「掴むかどうか、見たかった。」
肩を叩く。
「掴まなかった。氷室硯、あの瞬間から、当方の記録に載っていた。」
*
散会のとき、白髪の指導教員が杖をつき、二人を講堂の入口まで送る。
「八年前の決勝、」
老人が細めた目で笑う。
「俺が審査長だった。採点のとき、分かっていた——この氷室硯、自由討論で水を抜くのが、川を溢れさせるほどだった。」
氷室硯が珍しく顔を赤くする。
「先生……」
「当時は、この子は馬鹿だ、と思った。」
肩を叩く。
「今見れば、馬鹿じゃない。一試合の討論で、生涯を換える——この商い、全校の討論部四十年、お前より稼いだやつはいない。」
講堂の中、部員がまだ散らない。現隊長は短い髪の娘で、ノートを抱えて追いかけてくる。
「神楽先輩! サイン、もらえますか。これで——『一歩退く人間に、退路が最初からないなら』!」
ペンを受け、書き終え、考えて、もう一行足す。
娘がノートを捧げるように読む。
「『——なら、前へ一歩。』」
顔を上げ、目がきらきらしている。
「先輩、どういう意味ですか。」
「つまり、」
神楽檀は振り返って傍の氷室硯を一目見て、笑う。
「路は、人が歩くものだ。退路を待つな。前へ行け。」
*
その夜、学校の裏門の焼肉屋台。
プラスチックの椅子、折り畳みの机、炭火。身代を合わせて兆を超える二人が、大学生の一群と肩を並べて串を焼く。湊が焼いた韮を掲げ、氷室硯と必ず杯を合わせようとする。
「氷室の兄さん! 違う、義兄さん!」
「おう。」
氷室硯の返事は、恐ろしいほど素直だ。
「言っとくけど、」
湊がソーダを一口飲み、改まった顔をする。
「姉さんに告白した日から、今日を待ってた。まる一年! 寮の連中、焦ってた!」
「なぜ。」
「姉さんって人は、」
少年が頭を振る。
「世界であいつしか、娶る勇気がない。義兄さん、勇者だ。」
卓がどっと笑う。神楽檀が打とうとして、氷室硯に笑って止められる。炭がパチパチ、串が脂を吹き、夜風にクミンと青春の匂い。
氷室硯は傍で笑い騒ぐ一群を見、傍の、目尻まで光の女を見、手のソーダを上げる。
「弁友に、敬す。」
言う。
「宿敵に、敬す。」
神楽檀が杯を返す。




