第40話 墓参り
春になってから、神楽檀は城南へ行った。
路地は、取り壊される。ブルドーザーが入口に止まり、断壁のあいだ、火の出た賃貸は黒い壁が半面、残るだけだ。廃墟の前に立ち、長く立つ。
三ヶ月前——いや、もう一年近い。ここで顔を失い、香月潤が火を点け、二人の過去を灰にした。
廃墟の前にしゃがむ。
断壁にまだ焦げの痕があり、煉瓦の隙間から野草が数本、細い黄の花をつけている。半面の壁を撫で、指先に灰が一層、付く。
あの夜を、想像してみる。
あの女がこの賃貸に跪き、鏡に向かい、一寸ずつ別人になるところ。ガソリンを点けたとき、震える手。火が天を衝いたとき、最後に一目、振り返るところ——その一目で焼けたのは、香月潤の二十六年であり、ちゃんと生きられたはずの人生でもあった。
一件の中に、この部屋の現場写真がある。鉄のベッド、脚の欠けた机、壁に透明テープで貼った黄色い紙。あとで判読された。澄江大学の時間割で、表頭に「香月潤」の二字、字は端正だ。余白に、さらに小さな字。
【持ちこたえろ。持ちこたえれば、いい。】
何年も、持ちこたえた。最後は持ちこたえられなかった——あるいは、向きを間違えた。
廃墟の前にしゃがみ、ふと思う。恨みという字は、重すぎもすれば、軽すぎもする。あの女は六十三日を壊した。だがあの女の人生は、何年も前から、少しずつ壊されていた。
これは許しではない。許しは判事と菩薩の仕事だ。
分かった、というだけだ——全部を焼いたあの火が、どこから点いたか。
風が来て、地上の紙屑を巻く。
「全部、過ぎた。」
半面の焦げた壁に向かい、低く言う。
壁に言っているのではない。闇の中で六十三日、手放さなかった自分に。かつてのこの部屋で、ガソリンを提げて震えた女にも。
出るとき、一目、振り返る。桑婆の小さな庭にも封紙が貼られ、塀の白い紙の灯籠は、もうない。
一つの時代が、あの古くて暗い手業ごと、瓦礫へ埋まる。
*
路地を出て、運転手に川へ行けと言う。
未明の五時半、まだ明けない。白菊の一束を抱え、堤に立ち、待つ。
香月潤が預けた事だ——代わりに見てほしい。川の日出が、何色か。
六時七分、川の果てに一線の金と赤が浮かぶ。太陽が水から昇り、まず弧、それから半面、最後に轟と跳び、川全体を流れる金にする。早起きの貨物船が汽笛を鳴らし、鴎が水面を掠め、翼の先まで光を帯びる。
神楽檀は朝の光の中に立ち、場の日出を、真剣に見終える。
それからしゃがみ、白菊を一輪ずつ摘み、川へ入れる。
「一輪目は、」
低く言う。
「自分に。闇の中で手放さなかった、私に。」
もう一輪が水に乗り、流れる。
「二輪目は、父と母に。娘は、日を取り戻した。安心して。」
三輪目が指先に、長く止まる。
「三輪目は……」
一拍置く。
「香月潤に。日出は見た。金と赤だ。借りは、ゆっくり返せ。返し終わったら、来世は、正面から、一度、見に来い。」
白菊が水面へ落ち、渦を作り、日出の金の中へ漂う。
立ち上がり、コートの露を払う。川風が長い髪を上げ、三輪が遠ざかるのを細めた目で見る。胸の、ずっと沈んでいた隅が、ふと軽い。
*
清明、墓園。
神楽檀は氷室硯を連れて、両親合葬の碑の前に立つ。湊が碑の前に供えを置き、歪んでいて、後頭部を一拍されて、ようやく真っ直ぐになる。
「父さん、母さん。」
しゃがみ、碑を綺麗に拭く。過ぎた八年の、毎回と同じだ。
「今年は、人を連れてきた。見て。」
氷室硯が一歩前へ出て、立ち、深く礼をする。
「叔父さん、叔母さん。」
口を開き、声は終身の契約にサインするほど鄭重だ。
「氷室硯と申します。檀の……」
一拍、止まる。身分を選んでいるらしい。
「宿敵。」
神楽檀が横で、涼しく継ぐ。
氷室硯。「……」
湊が「ぷっ」と笑う。
「以前の事は、過ぎた。」
咳をして、言葉を組み直す。
「叔父さん、叔母さん、今日は正式に届けます。これからの難関は、俺が一緒に越える。勝ち戦は、俺が一緒に打つ。夜中の残業は、夜食を運ぶ。飯を忘れれば、俺が見る。」
「綺麗なことは言えない。一句だけ——」
碑の上の、温和な二つの笑みを見て、一字一字言う。
「二十六年、世界へ預けて、お疲れ様でした。これからの日は、俺に預けてください。」
山の風が墓園を通り、松柏がさらさら鳴る。
神楽檀は傍に立ち、交渉卓では一寸も譲らず、今は二つの石に緊張して掌に汗をかく男を見て、目尻が少しずつ熱い。
帰るとき、氷室硯は最後に残り、ふとまた碑の前へ戻り、声を落としてもう一句、足す。
「叔父さん、叔母さん、それと——欲しいものは、多くない。」
「これからの人生に、毎日、俺がいることだ。」
「一日も、欠けない。」
山道では、神楽檀と湊がもう遠い。陽が松柏を通り、肩に落ちる。氷室硯は碑にもう一度礼をし、早足で追う。
碑の上、白黒の写真の二人が風の中で笑っている。最初から、承知していたみたいに。




