第39話 人を憎むには、力が要る
神楽グループの年度発表会は、翌年一月に開かれた。
「換面事件」のあと、神楽の最初の年報だ。街の経済メディアは皆、知りたい。あれほどの驚愕のあと、この会社の底力はまだあるのか。
答えは、ある。
売上は前年比十七パーセント増、研究開発は三十パーセント増、南区の共同案件は順調。大画面で数字が流れ、台下の記者が疾く書く。
神楽檀の番になる。台上に立ち、視線が場を掃く。
「皆様が見ている数字は、私が出す宿題です。だが今日は、宿題の外の話をしたい。」
「過ぎた一年、神楽はいくつかの事を経験した。ニュースになった事もある。永遠にニュースにならない事もある。いちばん苦しいとき、研究開発の予算を一分も止めさせなかった人間がいる。取締役会を一寸も退かせなかった人間がいる。弟を六十三日、一日も切らさず守った人間がいる。それと——」
一拍置く。台下のある方角、氷室硯が一列目に座り、含み笑いしながら見ている。
「それと、皆が手放したとき、手放さなかった人間がいる。」
「だから、年報の資産は数字です。会社の本当の資産は、人の中にあります。」
「神楽は今年、従業員持株の枠を倍に広げます。守っている人間が、この会社だ、と、全員に知らせたいからです。」
発言が終わり、記者の質問になる。
前列の記者が最初の質問を取り、鋭い。
「神楽社長、外では、昨年の事件が内部統治の重大な穴を晒した、と見られています——成り代わりが二ヶ月、会社を主宰できた。どう応えますか。株主の信頼は、何で保証しますか。」
台下が静かになる。この問いは、その場の誰もが訊きたい。
神楽檀は逃げない。
「まず、数字を訂正します。」
記者を見て、急がず、遅れない。
「二ヶ月ではありません。六十三日です。次に、この記者の方が正しい——穴は、本当にありました。粉飾するつもりはありません。事件のあと、神楽は三つのことをしました。第一、核心の印鑑と送金の流れを、二人・二重の鍵、動的な検証へ。第二、第三者の独立監査を入れ、四半期ごとに取締役会へ報告。第三——」
「第三。六十三日の一日ずつを書き、幹部研修の教材の一頁目に置きました。神楽は上から下まで、全員、読んでいます。」
「信頼については——」
微かに笑う。
「さきほどの年報を見ていただきたい。穴は根本を傷めません。根本は誰かの顔ではなく、制度の中、人の中にあります。私の特助は、『いない』六十三日、四十七頁の仕事日誌を記し、研究開発の予算を護りました。取締役会は、二百八十億の送金を止めました。会社の統治の水準は、凪のときに見ない。荒波のときに、立つ人間がいるかどうかを見ます。」
「神楽には、いました。だから、私には自信があります。」
台下、拍手が雷のようだ。質問した記者は座り、原稿へ疾く何か記す。
もう一人が立つ。
「神楽社長、最後の質問はプライバシーに触れるかもしれません——近頃、氷室グループの氷室社長と……」
「この記者の方、」
遮り、顔は真面目だ。
「今日は年報の発表会です。私事は——」
止まり、ふと口角を曲げる。
「——ノーコメント。ですが、ご期待ください。」
満場が騒ぎ、すぐ笑いと拍手になる。配信のコメントが花火みたいに炸ける。
発表会が終わって二時間と経たず、この台詞がトレンドに乗る。
だが一位は年報でも、持株でもない。
動画だ。
発表会の散会を盗撮したもの。地下駐車場、神楽檀のヒールが氷に乗り、体が一瞬、揺れる。傍の氷室硯が目にも留まらず腰を支える。一秒、見つめ、神楽檀が何か言い、氷室硯が低く笑い、それから——ごく自然に、手を繋ぐ。
全部で十五秒に満たない。
トレンドの語:#宿敵 恋人#
入ると、熱評の一位。【五年争って、手を繋いだ?? 商戦小説でも、こうは書かない!!】
二位。【最初から見えてた! 調印の握手! 親指! 親指が一度、押した! 拡大して!!】
三位。【澄江の商圏の公開の秘密でしょ。氷室硯があの人を見る目だよ。五年、隠してない。】
七瀬星蘭が携帯を神楽檀の前へ出す。
「広報が、下ろすか、と。」
動画の中の、手を繋いだ男を見て、コメント欄の「推せる」を見て、眉を上げる。
「下ろす必要は。」
「では……認める?」
「事実だ。」
携帯を返し、二歩歩き、また振り返る。
「それと、公式アカウントの調印の写真を、今日の駐車場のに替えさせて。」
七瀬星蘭。「……社長、それは公式発表です。」
「うん。」
頭を回さない。
「効率よく。」
*
同じ刻、街のもう一端。
桐島陽は拘置所に四ヶ月いた。従犯で、重大な立功——桑婆の帳簿、香月潤の資金の手配を、綺麗に吐いた——最終、執行猶予。
出てから、ライブ配信で物を売り始める。
配信の中、洗剤の一本を懸命に掲げる。
「皆さん! この汚れ落ち、ヤバい! 九百九十円、九百九十円で損はしない——」
コメントは疎らだ。ふと誰かが気づく。
【待って、この人……あの換面事件のパパラッチ?】
【マジか、本人! 猶予のやつ!】
【よく顔出せるな。神楽社長、お前らに殺されかけたぞ!】
コメントが一気に炸ける。罵りが潮のように入り、視聴はかえって伸びる——騒ぎを見に来た人間だ。
桐島陽は洗剤を掲げ、リングライトの中に立ち、顔の笑みが少しずつ保てなくなる。
この録画が、のちに神楽檀の前へ回される。湊が回した。少年は義憤で胸がいっぱいだ。
「姉さん! 見て! まだ売ってる! コメント、行くか——」
携帯を受け、しばらく見る。
画面の中、桐島陽は画面いっぱいの罵りに囲まれ、どう説明していいか分からず、半ばで止まり、ただ何度も、機械のように礼をする。
おおよそ一分見て、携帯を弟へ返す。
「姉さん?」
「行かない。」
神楽檀が言う。
「あなたも、行くな。」
「なぜ! あいつ、危うく——」
「湊、」
弟を見て、目はとても平静だ。
「人を憎むには、力が要る。姉さんの力は、今、別に使う。」
一拍置き、もう一句足す。
「それに、あいつはこれからの毎日、ああいう灯の下に立って、何度も礼をする。私たちのコメントより、よほど辛い。」
「憎む力が、もうない。」
執務室へ向き、手を振る。
「九百九十円、自分で売らせておけ。」




