第38話 世紀の協業
南区プロジェクト共同調印の儀式は、十二月二十四日に決まった。
澄江の主要な経済メディアが、全部、来た。
神楽と氷室。五年争った二大が握手する。澄江の商界では、年度の総括に書ける一件だ。
調印台で、神楽檀と氷室硯が並び、二通の協議に鄭重に筆を落とす。
テキストを交換し、握手する。
閃光が一面に点く。
二つの手が握られたとき、氷室硯の親指が手の甲を、ごく軽く、一度、押す。
神楽檀は目を鼻へ、鼻を心へ向け、面上に一滴の隙もない。だが耳の根が、そっと赤い。
調印の過程は、想像以上に、婚礼に似ている。
両家の法務が前後三ヶ月、磨いた。協議は四百頁。
サインのペンは倉橋慎がわざわざ用意した——同型の万年筆が二本。半ばまで書いて、記者が気づく。キャップに小さな字母が一つずつ刻んである。一本は「M」。一本は「K」。
「氷室社長、神楽社長、」
記者が手を上げる。
「今回の協業は、外では『澄江の世紀の和解』と呼ばれています。五年争い、今は一つの机に座る。今の気持ちを、一言で。」
氷室硯は傍の人間を一目見て、マイクを譲る。
神楽檀が受ける。
「気持ちは——デューデリが、長すぎた、です。」
満場が一瞬、呆け、すぐ爆笑する。一列目の七瀬星蘭と倉橋慎だけが目を合わせ、同じ一句を互いの目に見る。この二人、何の謎掛けだ。
儀式が終わり、メディアが散る。氷室硯は去る気配がない。
「夜、空いてるか。」
「どうした。氷室社長、祝賀を?」
「違う。」
珍しく、自然でない。
「見せたいものがある。」
*
夜、氷室グループビルの最上階。
屋上の扉を押すと、冷たい風が面に来る。神楽檀はコートをきつくなる。
「真冬に、屋上で何を——」
言葉が、途切れる。
屋上の中央の小さな机に、ファイルが一通。クラフトの表紙、角が毛羽立ち、年季が見える。表紙に字はない。
「開けてみろ。」
氷室硯が言う。
疑いながら開く。株式の名義代持の写しだ。日付は五年前——神楽を継いだ二年目。
あの年、株価が国外の空売りに狙撃され、三営業日で三十パーセント落ち、市場は神楽が主を替えると狂った。危機のとき、謎の資金が入って買い、株価を無理に支えた。あとで調べた。口座は層が重なり、源は追えなかった。
今、源が手の中にある。
名義人:倉橋慎。実の出資者:氷室硯。持分:四点七パーセント。期限——記録の最後に書いてある。【永久保有。減らさず。議決権を求めず。】
「五年前、俺は南区の土地を奪いながら、市場でお前の株を護っていた。」
氷室硯は屋上の縁に立ち、足元の万家の灯を見る。
「神楽檀、俺という人間は、分裂してないか。」
ファイルを握り、指先が微かに震える。
「なぜ。」
「五年、宿敵をやったからだ。」
振り返り、見る。
「『宿敵』は、お前のいちばん近くに立てる位置だった。敵でいれば、一手一手を調べる大義があり、どの戦にも現れ、お前が勝つのを見られる——皆が引き摺り下ろそうとするとき、本当には下ろされないのも、見られる。」
「倒れるのを、見ていられなかった。」
遅く、安定して言う。
「お前が倒れたら、誰と争う。五年、争ったのは、最初から会社じゃない。」
屋上は静かだ。遠く、都心の灯が星の海だ。
「もう一つ、八年、隠していた。」
深く息を吸う。
「討論の決勝、お前の総括には、一つ、穴があった。第三の論点、帰謬の歩が大きすぎた。『退路と退路の権利』から切れば、あの論点は崩れた。」
瞳孔が微かに縮む。
「当時、見えていたの。」
「試合前から、用意してあった。」
氷室硯が言う。
「自由討論のとき、原稿はポケットにいた。使わなかった。」
「なぜ、使わない!!」
「立ち上がった第一声だ。『一歩退く人間に、退路が最初からないなら』——」
八年の光陰を通し、顔に落ちる。
「あの瞬間、負けると決めた。神楽檀、俺はこの生涯、誰にでも勝った。お前にだけは、心から負けた。」
最初の一片の雪が、そのとき落ちる。
十二月の初雪が、静かに、屋上に、二人の肩に落ちる。
「檀。」
一歩前へ出、声をとても軽くする。雪を驚かすのを恐れているみたいだ。
「俺は口が悪い。八年かかって、これを言った。綺麗なことは言えない。愚かなことだけする——株を護り、切り札を隠し、八年のメモ、それと……」
「お前が『死んだ』六十三日、何度も自分に言った。絶対、まだいる、と。」
「宿敵は五年、もう充分だ。」
目を見る。
「これからの日々、別の身分で、横に立ちたい。くれるか。」
雪が、ますます大きい。
神楽檀は彼を見る。知らない場所で、黙って八年立っていた男を見る。肩の雪を見る。目の中の、用心深く、賭けきった光を見る。
ふと、笑う。
「氷室硯、」
言う。
「知ってるでしょう。私は、決める前に手続きを踏む。」
「……何の手続きだ。」
「デューデリ。」
真面目に指を折る。
「資格審査。八年、全工程に参加。記録は真実で完全。重大な瑕疵なし——通過。履行能力。株を護った資金、四点七ポイント。永久保有の約束。違約なし——通過。リスク評価——」
「リスク評価は。」
「極めて高い。」
目を上げ、解けない笑みが目に揺れる。
「一度入れば、退けない。氷室硯、考えたか。」
「考えた。」
言う。
「八年、考えた。」
「いい。」
手を伸ばし、調印のときのように、鄭重に掌へ入れる——
「デューデリ、通過。入株を認める。」
「期限は、永久。」
雪が落ち、交えた手に、屋上に、足元の、それぞれが何年も守り、これから一緒に守る街に落ちる。




