第37話 観察ノート
神楽檀の携帯は、氷室硯が自分の手で返した。
事件が結ばれ、証拠物が順に還る。事故で「車と一緒に焼けた」携帯は、実は香月潤がすり替えていて、真機はずっと彼女の金庫に——新品の、封も切っていない箱と一緒に。
「箱の中のは、香月潤がお前に『用意』したものだ。」
氷室硯が携帯を渡す。
「全部が終わったら身分を替え、携帯まで『新しい』ものを、と思っていただろう。皮肉なことに、残したのはこの古いほうだ。六十三日のものを、全部、入れてくれた。」
神楽檀は受け取り、電源を入れる。
画面が点いた瞬間、密な通知が押し寄せる。構わず、まずアルバムを開く——六十三日、香月潤がこの携帯で二百枚以上撮っている。新しい鞄、ミシュラン、自撮り。どの自撮りも、自分の顔が穏やかで精緻に笑っている。
表情なく全選択し、削除する。
「そうだ、」
ふと思い出し、氷室硯を見る。
「あなたの観察ノートは。」
氷室硯の表情が、珍しく強張る。
「何の観察ノートだ。」
「七瀬が吐いた。」
腕を組む。
「六十三日、毎日『観察ノート』を書いていた、と。あいつの差異記録より勤勉だった、と。携帯、出して。」
「仕事の記録だ——」
「出して。」
三秒後、氷室硯は観念して自分の携帯を出す。
メモに、《観察ノート》というフォルダ。六十三条、一日も欠かない。
【一日目。今日の注記は九字。檀の注記は六字を超えたことがない。疑義。】
【九日目。エレベーターで会い、先に挨拶してきた。檀は先に挨拶しない。決まりは会釈だ。疑義。】
【二十一日目。アメリカーノの砂糖を開いた。十秒、見た。笑って、どうした、と訊く。檀は訊かない。檀は「何を見てる」と言う。……疑義、ではない。】
【四十日目。確認した。彼女じゃない。だが手を後ろに回し、親指が掌を押さえる——あの動作は、檀のだ。皮が覚えている。まだいる。】
【五十五日目。取締役会の遮断、成功。檀、待て。網は遅く、万全に収める。急ぐな。】
【六十二日目。熱を出し、うわごと。呼んだのは「湊」。香月潤がこの名を呼ぶはずがない。】
【六十三日目。戻った。ノート、封じる。】
神楽檀は一条ずつ、ゆっくり繰る。
執務室は静かで、午後の陽が全面ガラスから入り、伏せた睫毛に落ちる。最後の頁まで行き、顔を上げ、目が少し赤い。口は容赦しない。
「氷室硯、あなた、腹が黒いのね。」
「ああ。」
「もっと前は。」
指を滑らせ、メモの一覧を開く——《観察ノート》の下に、もう一つのフォルダが、そこにあった。名は《KM》。
氷室硯は今度こそ、本気で手を伸ばして奪いに来る。神楽檀は携帯を高く上げて避け、フォルダを開き、呼吸が一拍、止まる。
いちばん古い一条。日付は八年前。
【九月二十七日。決勝、負けた。光の中に立ち、目が光より明るい。名を記す。神楽檀。】
下へ、八年、断片、何百条。
【彼女の会社が空売り筋のリストに乗った。明日、倉橋にあの数社と話させろ。話さなければ、ネガを少し買う。】
【今日、短くした。長いほうがいい。まあいい、どっちもいい。】
【残業のとき、灰色の毛布を掛ける。角が擦り切れても替えない。同じものを一枚、新しく取った。休憩室の棚へ。「総務が配った」と付箋。信じた。】
【緊張すると、右手の親指が左手の掌を押さえる。本人は、知らないらしい。】
神楽檀は携帯を握り、しばらく言葉が出ない。
「神楽檀。」
氷室硯はもう開き直り、ソファへ凭れ、好きにしろという顔をする。
「訊け。」
「いい、訊く。」
携帯を揺らす。
「私を調べて、どこまで。」
「どこまで、か……」
考えて、真剣に言う。
「だいたい——執務室の休憩室、二枚目の毛布は俺が替えた。六年飲んでるあのアメリカーノ、豆はコロンビアから人に頼んだ。仕入れの帳票は『総務調達』。三年前に無くした万年筆は、書斎のペン立てにある。拾った。返す気がしなかった。」
神楽檀。「……」
「それが、調査?」
腹が立って笑う。
「氷室硯、八年、私の横で地下工作してたのね!」
「認める。」
手を上げ、目は全部、笑いだ。
「情状酌量を申請する。」
睨み、睨み、自分も持ちこたえない。陽が二人のあいだに温く敷かれ、空気の何かが、甘く溢れそうだ。
そのとき、氷室硯の携帯が鳴る。
着信:神楽湊。
同時に画面を一目、同時に相手を一目。神楽檀が受け、スピーカーにする——
「姉さん!」
少年の声は元気いっぱいだ。
「寮が点呼だ。今夜は帰らない! それと、氷室の兄さんが横にいたら、言っとけ。来週、飯だ! 寮、全員! 約束した!」
切れる。
執務室が二秒、静かだ。
「いつ言った。」
氷室硯は茫然とする。
「先週、『そのうち飯』って言った。」
神楽檀は笑いを堪え、携帯を返す。
「氷室社長、若い人間の『そのうち』の理解は、あなたたち資本家とは違う。」
「……いい。」
観念して暦を繰る。
「寮、全員。この小僧、俺を搾るのは、姉と同じだ。」
神楽檀は眉を上げる。
「誰と同じ。」
「姉さんと同じだ。」
氷室硯は素直だ。
「姉さんが、世界でいちばん強い。」




