第35話 飢えた人間は知っている
拘置所の暮らしには、人を削る規律がある。
朝六時に起き、七時から労働。紙箱を畳む。一日八千個。指先に繭ができ、繭が硬い殻になる。
香月潤の指は器用で、同室の誰より速い。指導員が褒めると、俯いて小さく笑い、また畳む。
痩せ細っている。作り直された殻はもともと薄く、急いで縫った服みたいだ。風が吹けば揺れる。
入所二週目、弁護士が面会に来て、「家の知らせ」を持ってくる。
「お父上が、伝言を預けた。」
弁護士は記録を繰り、口調は平板だ。
「記者が五十万で、あなたの話を買う、と。一部始終を書け、詳しいほどいい——どう顔を替えたか、どう会社へ入ったか。書いて売れば、半分を寄越せ、と。それと……」
一拍置き、言いづらいらしい。
「もう出られないんだから、腹の中で腐らせるのは無駄だ、と。」
面会室が静かだ。
香月潤は鉄の椅子に座り、俯き、長く口を開かない。
五十万。二百八十億を盗むところだった。父は、自分が檻にいる今、人生を五十万で売り、半分を持っていくつもりだ。
何年も前の深夜を思い出す。あの男が大学の学費を盗んで博打へ行ったこと。依存症の施設の門前に跪いて「娘、助けて」と泣いたこと。八百万が出せなかったとき、電話で「恩知らず」と罵ったこと。
最初から最後まで、この男の目に、自分は娘ではなかった。
物だ。金になるときは賭け金。罪を被せるときは盾。身を滅ぼした今は、分解して、話として売る。
「先生。」
顔を上げ、声は恐ろしく平静だ。
「伝言を、お願いします。」
「どうぞ。」
「今日から、父はいません。」
一字一字、はっきりしている。弁護士が顔を上げ、この女の顔に涙もなく、怒りもなく、何もないのを見る——何かを徹底的に抉ったあとの、血の匂いのする平静だ。
所内、週に一度、テレビの時間がある。
その夜、ニュースが神楽を流す。南区プロジェクト再開の発表会。神楽檀が白いスーツで台上に立ち、傍は氷室グループの代表だ。カメラが掃き、微かに体を開き、氷室硯に何か言い、二人が笑う。閃光の雨の中、あの顔が光彩を放つ。
監室で誰かが舌を鳴らす。
「へえ、いいご身分。」
「あの件で巻き込まれたんだろ?」
横目で香月潤を見る。
「おい、お前、あいつに成り代わって入ったんだろ。ほら、話せ。本人はテレビより綺麗か。」
香月潤は口を開かない。
低い椅子に座り、畳みかけの紙箱を握り、画面を見る。台上の人間は万丈の光、台下の人間は前途が錦。その全部を、六十三日、身に被った。
嫉妬しない、と言えば嘘だ。
だが奇妙だ。今、あの顔を見て、胸に湧くのは、かつての五臓六腑を焼き抜く恨ではない。
桑婆が捕まった日に言った言葉を思い出す——お前の一切は、呑み込めない。
本当に、呑み込めない。あの六十三日、神楽檀の一切を持った。別荘、会社、供回り。だが毎日、恐れの中にいた。馬脚、悪夢、鏡の中のあの目。盗んだのは他人の人生で、他人の人生は、一分ごとに自分を拒んだ。
「おい、訊いてるぞ。」
隣が押す。
香月潤は我に返り、手元の紙箱を畳み終え、籠へ入れ、ゆっくり口を開く。
「飢えた人間は知ってる。本当に餓死すれば、嫉妬も一緒に餓死する。」
監室の人間が呆ける。
「どういう意味だ。」
「つまり——」
テレビを見て、声はとても軽い。
「最初から、腹いっぱい食うことだけ考えてれば、よかった。」
腹を満たし、よく眠り、少し貯めて、日を一日ずつ生きる。そういう日は、もうすぐそこまで耐えていた。だが他人の楼の頂をあまりに長く見上げ、足元にも路があるのを忘れた。
洗い場に金属の鏡がある。ステンレスで、磨りガラスのようにぼやけている。
その夜、香月潤は鏡の前に長く、長く立つ。
鏡の人は、自分だ。端正な眉目、蒼白い顔、二十六歳、目尻にすでに細い皺——香月潤の顔だ。麻雀屋で跪いて泣いた顔、図書館で苦読した顔、賃貸で殴られた顔。
「この顔を、」
鏡に向かい、低く言う。
「一日も、ちゃんと見てなかった。」
二十六年、嫌った。貧しいのが嫌、普通なのが嫌、誰にも覚えられないのが嫌。夢でも引き裂いて、別の顔に替えたかった。
だが、ちゃんと見たことがなかった——この顔にも、母の影がある。街の者は言った。笑うと、若いころの母にそっくりだ、と。
鏡の人から、涙が予告なく落ちる。
翌日、指導員が話を呼び、起訴状への意見を訊く。
「認めます。」
香月潤が言う。
「全部、か。」
「全部、認めます。」
顔を上げる。
「詐欺、不法拘禁、証拠偽造——全部です。一つだけ、お願いがあります。」
「言え。」
「公判のとき、」
声は軽いが、安定している。
「神楽檀に来てもらえますか。面と向かって、一句、言いたい。」




