第34話 守りたい気持ち
湊の「精神疾患」の診断は、すんなり取り消された。
市中心病院の精神科の専門家組が全ての鑑定をやり直し、結論ははっきりしている。神楽湊、男、十九歳、精神状態は完全に正常。既往の「躁鬱」診断に根拠なし、取り消す。鑑定に付いた意見欄で、主任がもう一句、書いた。
【当該対象がいわゆる「治療」期間に受けた薬物介入について、八週間の心理的なケアを勧める。】
取り消した日、湊は病院を出て、入口で長く日を浴びる。
「姉さん、」
ふと言う。
「心理学を受けたい。」
神楽檀は眉を上げる。
「決めた?」
「決めた。」
少年は病棟を見て、声は平静だ。
「松山みたいな場所、閉じ込められている人間の多くは、病気じゃない。病気なのは、閉じ込めた側だ。これを学びたい——いつか、誰かが分けられなきゃいけない。何が病で、何が罪か。」
九月の志望表。澄江大学心理学部。第一志望、これ一つだけ。
心理の介入は八週、姉弟で一緒に行く。
三週目、セラピストが湊とだけ話した。戻ってから、神楽檀に言う。
「弟さんの中に、とても重い守りたい気持ちがあります。この年齢が負うべき負荷を超えています。母が逝き、父が逝き、あなたも危うく逝き、世界に残ったのは自分だけがあなたを守れる、と感じている。」
その夜、姉弟は旧宅の屋上でソーダを飲む。
「湊、」
神楽檀は遠くの川を見る。
「姉さん、一つ約束する。」
「何。」
「これから何が起きても、私は戻る。」
振り返り、弟の横顔を見る。
「だが、あなたも一つ、約束して。——人生は、あなた自身のものだ。私の代わりに担がなくていい。私の護衛にならなくていい。」
少年は長く黙り、瓶を手の中で何周も回す。
「姉さん、」
低く言う。
「小さいころ、両親の祭壇で言った言葉、覚えてる。」
「覚えてる。」
「天が落ちても、姉さんが上、私が支える、と。」
顔を上げ、目がきらきらしている。
「今日、俺も一句。——天が落ちても、弟が上だ。十三年、護ってくれた。これから、俺が背を伸ばして護る。護衛じゃない。家族だ。」
神楽檀は彼を見て、ふと手を伸ばし、髪を乱す。
「いい。」
言う。
「家族。」
週末、湊が古い鉄の箱を抱えて帰る。
月餅の空き缶を改めた箱だ。錆が斑で、茶卓に置くと鈍い音がする。
「姉さん、これ、正式に渡す。」
蓋を開け、神楽檀は呆ける。
満杯の紙切れ。大きい、小さい、整った、乱れた、宿題の裏、領収の裏、映画の半券——
【姉さん、今日、保護者会。先生が俺を褒めた。来てくれなくてもいい。代わりに聴いた。】(七年前)
【姉さん、あけましておめでとう。また会社で年を越すんだね。餃子、一皿残した。冷蔵庫。】(五年前)
【姉さん、今日は誕生日。忘れてた。ケーキ、代わりに食べた。願い事、一つ代行。姉さんが早く家で飯を食べられますように。】(三年前)
【姉さん、注射するって。怖くない。神楽の子は、痛くない、って言ったから。】(六十三日前、松山)
【姉さん、今日、空が青い。見えたらいいのに。代わりに、二度、見た。】(松山)
【姉さん、五十日目。皆、死んだって言う。信じない。姉さんの言葉は、いつでも本当だから。】(松山)
一枚一枚、全部で三百二十六枚。湊が十三歳から、十九歳まで。
神楽檀はソファに座り、一枚ずつ見る。半ばで涙が止まらない。最後まで見て、三百二十六枚を時系列に揃え、箱へ丁寧に戻し、箱を抱え、長く、長く口を開かない。
「馬鹿だなあ。」
声がひどく嗄れる。
「書いて、なぜくれなかった。」
「あげたら、『いくつになってそれ』って言うに決まってる。」
頭を掻いて笑い、目は赤い。
「貯めとこうと思った。いつか支えきれなくなったとき、出せばいい。——弟は、ずっといる、って。」
*
生活が、少しずつ軌道へ戻る。
氷室硯が旧宅へ飯を食いに来る回数は、週に一回から、週に三回になる。四回目、エプロンを締めて厨房で卵チャーハンを作り、湊が扉枠に凭れて監督する。
「にんじん、入れるな。」
少年が注意する。
「分かってる。」
氷室硯は顔を上げない。
「姉さんはにんじんにアレルギーがある。発疹が出る。」
湊が目を細める。
「なんで、知ってる。」
フライ返しが一拍、止まる。
「……調べた。」
「氷室の兄さん、」
少年がふと、顔を正す。
「姉さんは、ああ見えて、心が柔らかい。良くしてくれた人間は、一生、覚える。」
火を止め、振り返り、真剣に見る。
「だから、」
一字一字言う。
「良くしろ。ずっと、良くしろ。」
「する。」
「うん。」
腕を組み、大人の体を必死に作る。
「じゃあ、先に試す。兄さん、小さいと思うな——俺は、大きくなる。」
氷室硯はこの十九歳の「義弟」を見て、ふと笑い、鄭重に頷く。
「いい。大きくなるのを、待つ。」
厨房から、卵チャーハンの香りが漂う。にんじんは、入っていない。




