第33話 半分は、氷室硯の
専案組の対外通報は、金曜の午前、定刻に出た。
【市警察、通報。先日、他人の身分を冒しての特大詐欺事件を摘発。被疑者・香月某(女、二十六歳)は他者と共謀し、整形、催眠、薬物による支配などの手段で、長期にわたり神楽グループ会長に成り代わり、企業資金二百八十億円の詐欺を図った。主たる被疑者は全員、拘束。関係資金は全額凍結、実損はなし。】
文言は厳格で、抑制がある。「換面」もない。「封魂」もない。公衆の認知の外へ出る一字もない。
その日の午後、神楽檀は市の拘置所へ行き、桑婆に会う。
面会室のガラスの向こう、老人は捕まった日よりさらに痩せ、灰色の号衣が体に掛かり、ハンガーのようだ。神楽檀を見て、濁った目が一瞬、明るくなり、すぐまた暗くなる。
「娘、罪を問いに来たか。道を問いに来たか。」
「どちらでもない。」
ガラス越しに見る。
「一事、訊きたい。この先……禍根はあるか。」
桑婆は長く見て、ふと笑う。皺が全部寄る。
「皮は旧主を覚える。覚えたら死ぬまでだ。あいつは——」
隣の方角へ顎をしゃくる。
「あいつの殻は、引きから作り直したものだ。紙より薄い。お前の髪一本に触れようとすれば、殻が先に砕ける。」
「なら、いい。」
神楽檀は立ち上がって出ようとする。
「娘。」
桑婆が、ふと呼び止める。
長く黙り、濁った目が面会室の惨白い灯を見て、ゆっくり口を開く。
「この手業は、婆のところで七代目だ。祖先が何をしていたか、知っているか。」
「戦場で火に顔を焼かれた兵。凶年に容を壊され、嫁げなかった娘。曾祖父が顔を替えてやった——盗みではない。苦を生き尽くし、自ら皮を出した人間が、最期にした善だ。顔を一枚替え、命を一条救う。それが手業だ。」
「この代になって、」
自嘲して口角を引く。
「商いになった。顔一枚、命一条、金の三割。」
神楽檀は静かに聴く。
「捕まった日、あの後生——」
目蓋を上げる。
「塀の向こうで『俺はいる』と叫んだやつ。氷室の子だろう。」
神楽檀が一瞬、固まる。
「なぜ……」
「五十年やってきた。真偽は聴き分けられる。」
老人はゆっくり言う。
「あの一声で、封が閉じかけた門が裂けた。娘、お前の命は、半分が弟の声だ。半分は、あいつの声だ。」
「後生は、得難い。」
再び目を伏せ、もう見ない。
「福を、惜しめ。」
*
月曜午前九時、神楽グループ取締役会。
神楽檀が会議室へ入ったとき、取締役は全員、起立する。
引き締まった黒いスーツで主位に座り、視線が場を掃く。
「皆様、久しぶりです。」
挨拶もない。恨みもない。前のファイルを開き、声は平稳だ。
「今日、三つのことを告げます。」
「第一。事件は既に捜査が終結しています。グループの資金は一分も損していない。過ぎた六十三日、取締役会で誰が何をしたか、私は分かっています——」
視線が長い机の端の二人に一拍、留まる。二人の顔が瞬時に白い。
「長年一緒にやってきたことを念じ、今回は警告だけです。追及はしません。だが、一度だけです。次があれば、神楽の決まりは、皆様ご存知でしょう。」
「第二。即日、七瀬星蘭をグループ副社長に昇任させ、投資とリスク管理を分掌します。過ぎた二ヶ月、この会社を守っていたのは彼です。この位置は、彼にこそふさわしい。」
拍手が上がる。七瀬星蘭は右手に座り、目尻が微かに赤く、立ち上がって一同に礼をする。背筋は真っ直ぐだ。
「第三。南区プロジェクトを再開します。ただし形を変える——神楽の独資から、共同開発へ。」
ファイルを閉じる。
「相手は、氷室グループです。双方、出資は五分五分。リスクは分かち、収益は分かちます。協議の細部は、散会後、法務が氷室と接続します。」
満座が騒ぐ。
神楽と氷室。澄江の商いで五年争った宿敵が、組むのか。
古参の一人が我慢できず口を開く。
「神楽社長、氷室は結局、競争相手です。それは……」
「尾崎取締役。」
神楽檀は目を上げ、視線は平静だ。
「六十三日前、私が『死んだ』とき、神楽を動かしたのは誰か、守ったのは誰か、皆様、胸に数があるはずです。」
「商いに、永遠の敵はありません。」
言う。
「前へ行く神楽だけが、永遠です。」
散会後、七瀬星蘭が執務室まで付いてきて、ついに持ちこたえない。
「檀さん、共同の件、いつ決めたんです。氷室硯は知っていますか。」
「まだ知らない。」
机の向こうに座り、パソコンを開き、口調は日常だ。
「だから、あとでメールを見たら、表情が面白いと思う。」
七瀬星蘭は自社の社長の口角の、あるかないかの笑みを見て、ふと分かる。馴染みの神楽社長が、本当に戻ってきた。
しかも、以前より、何かが増えている。




