第30話 陣
「姉さん——!」
神楽湊の叫びが塀にぶつかり、庭の燭が揃って一寸、低くなる。
門の外、氷室硯は少年の腕を死ぬほど掴んでいる。路地の両端、私服の警官が出口を全部、封じている。稲垣剛は無線を握り、塀の上の惨白い灯籠を見つめ、額に汗が敷き詰められる。
「稲垣隊長、入りますか。」
「もう待て。」
古い刑事は歯を食いしばる。
「中で『事』をしている。今、扉を破れば場が壊れ、人と魂、両方を失う。誰が、その責を負える。」
路地口の指揮車の中、七瀬星蘭は傍受のイヤホンを死ぬほど握る。
来る、と彼が固執した。稲垣は最初、反対した——関係のない人間は行動区域へ入れるな、鉄則だ。彼は一句だけ返した。「中の人間は、私の上司であり、この生涯でいちばん大事な友人です。出てきたとき、身内の顔を見る必要があります。」
イヤホンの中、塀の内側の声が途切れ途切れだ。古い、唱えるような調子、燭が風に圧される音、女の、人の声ではない嗚咽。
七瀬星蘭は目を閉じ、唇が声なく動く。
檀さん、持ちこたえろ。帳は全部、記してある——四十七頁、一筆一筆、今夜、全部、清算する。
氷室硯は闇の中に立ち、心臓が太鼓のように打つ。
塀の中の声は聴こえない。だが、奇妙な悸動を感じる——見えない線が、あの庭から抜け、レンガを通り、夜を通り、まっすぐ胸へ繋がるみたいだ。
檀。
中にいる。一枚の塀を隔てて。
*
庭の中、朱砂の陣。
「第二問——」
桑婆の声が高くなり、拒めない圧が乗る。
「お前は誰だ!!」
蠱酒の麻痺は、もう指先まで満ちている。香月潤の意識は水に浸かったみたいにぼやけ、生き残る本能だけが抗っている。この身体の舌を掴み、力の全部を出す。
「私は……神楽檀……」
三文字が出た瞬間、八本の白燭の火がいきなり高く伸びる。
成った。桑婆の目に鋭い光が一閃する——第二問が落ち、因果は七分、続いた。第三問でこの名を噛み殺せば、鏡の門が閉じ、大功が成る。
老人は怠らない。懐から掌大の銅の鈴を出し、陣を疾く歩き、鈴の音が急で細かく、驟雨が鉄板を打つみたいだ。歩きながら糯米を一把一把、陣へ撒く。米が落ちると、粒が立ち、細く、首尾の繋がった白い線になり、香月潤を中央に囲む。
「門が開く——」
嗄れた声で言う。
「娘、神を集めろ! 最後の一問、噛み殺せ!」
陣の中の香月潤には、それらは聴こえない。
麻痺はもう頭頂を越え、意識は温かい水底に沈み、「神楽檀」の三文字だけが水面に浮いている。最後の藁だ。三文字を死ぬほど抱く——
私は神楽檀。神楽の会長だ。雲頂の別荘に住み、二百八十億の契約にサインし、駒井伯父さんは父より出色だと言った……
何度も黙読する。護りの言葉みたいに。
だが一遍、唱えるたび、闇の奥の声が冷たく、急がず、一句、継ぐ。
——研究開発の予算を、三分の一、削った。
——アメリカーノに、砂糖を二包、入れた。
——弟の病室は、松山の三階、いちばん奥だ。
——「檀」の字の最後の払いは、平たい。
一句一句、急がず、抱いた三文字を千の傷、百の孔にする。
息をつく暇もなく、左の手——自分の左手——がゆっくり上がるのを感じる。
制御できない。
五指が開き、掌が上を向き、その手が緩慢で堅い姿勢で、一寸ずつ、前の銅鏡へ貼りつく。
「いや……」
恐怖で自分の手を睨む。
「止まれ! 止まれ!!」
手は、止まらない。
掌が冷たい鏡面へ貼りつく。裂け目が指先の触れた場所から声なく広がり、氷面に初めて入った紋のようだ。
昏い黄の銅鏡の中、あの顔が静かに見ている——目は沈静で、憐れみがあり、六十三日の闇が鍛え上げた、鋼のような決意が乗っている。
左手は神楽檀のものだ。この身体が覚える一寸一寸は、全部、彼女のものだ。
「第三問——」
桑婆の額に汗が滲み、声はほとんど掠れる。
「お前は誰だ! 早く答えろ!!」
庭の外、神楽湊の呼びかけが、一声一声、叩き込まれる。
「姉さん——!!」
「姉さん、一声、応えてくれ——!!」
路地口の影で、氷室硯が倉橋慎の手をいきなり振りほどき、大歩で塀の下まで歩く。冷たいレンガに貼りつき、全身の力を使い、見えない方角へ向かい、八年、胸の底に圧してきた二字を、もう隠さなくていい二字を、叫ぶ。
「檀——俺はいる!!」
俺はいる。
二字が、塀を貫いて入る。
陣の中、鏡に貼った手が、微かに震える。
闇のいちばん底で、神楽檀は聴いた。弟の声は一筋の光で、六十三日の果てから射してくる。この二字はもう一筋の光で、八年前に負けた討論、五年の商いの刃、一度も振り返らなかった場所から、貫いてくる。
二筋の光が、目の前の最後の道を照らす。
神楽檀は力の全部を使い、裂け目だらけの隔膜へ向かい、ぶつかる。
——
カチッ。
鏡面がもう一筋、裂ける。
朱砂の陣の中、跪いて座っていた影が、ゆっくり顔を上げる。燭が揺れ、涙で濡れた顔を照らす——
涙は香月潤のものだ。恐怖は香月潤のものだ。だが目の中のものは、徹底的に主を替えている。
「三答——」
桑婆が嗄れた声で迫る。
「お前は誰だ!!」
陣の中の人が、口を開ける。
今度は、二つの声が同じ喉から溢れ、裂け、絡み、庭の燭の中で轟と炸ける——
一つの声が叫ぶ。
「私は神楽檀だ!!」
もう一つの声は、沈静で、はっきりして、一字ずつ、六十三日の淵の果てで鐘が鳴るみたいだ。
「この皮の主人は、私だ。」




