第28話 釣り
市経偵支隊の会議室は、煙が濃い。
稲垣剛は二通のDNA報告を三度、繰り、録音ペンの電話をもう一度聞き、顔を上げる。血走った目に、古い刑事の信じがたさが乗っている。
「警職二十八年、」
ゆっくり口を開く。
「拉致、バラバラ、国際マネーロンダリング、見なかった事件はない。だがこれは——換面して身を占め、魂が体内に閉じ込められている——」
一拍置き、苦労して一句、吐く。
「聞いたことがない。」
「稲垣隊長、俺たちが証明すべきは『換面』じゃない。」
氷室硯は会議卓の向かいに座り、声は冷静だ。
「証明すべきは、第一、城南の賃貸火災の生体組織が神楽檀に属する——DNAはもう出ている。第二、今『神楽檀』として動いている人間は、生物学上、香月建の娘・香月潤だ——血縁鑑定はもう出ている。第三、香月潤は神楽湊の不法拘禁と虐待の指示に関与している——録音はもう出ている。」
「それに、この六十三日、偽造した姉弟のチャット、二百八十億の殻、桐島陽の八百七十万、出所不明の賭博の借金——」
七瀬星蘭が継ぐ。
「詐欺、不法拘禁、証拠偽造、どれも実罪です。どう神楽檀になったか、法廷は信じなくていい。結果だけを見ればいい。」
稲垣は黙って煙草を半本吸い、火を潰す。
「いい。証拠の鎖は認める。」
顔を上げ、目が鋭くなる。
「だが一つ——お前たちの『釣り』だ。二百八十億を出して、戻れなかったら、誰が責任を取る。」
「俺が取る。」
氷室硯が言う。
「氷室が全額、保証する。戻らなければ、俺が償う。」
会議室が一瞬、静かになる。稲垣は長く見て、ふと笑う。
「氷室社長、世間は神楽檀と宿敵だと言う。宿敵がここまでやるとは、この爺も、目を開いた。」
「違う。」
氷室硯が言う。
「最初から、違う。」
三日後、取締役会の「追加デューデリ」が満期になる。二百八十億、放たれる。
送金指令が下りた午後、街の金融の監視網が、音もなく開く。
二百八十億が星業建設の口座へ入って四十七分、第一の振替が出る——それから第二、第三……
経偵の指揮大画面で、赤い資金の流れが蜘蛛の網のように狂って広がる。十七件の振替、三層のオフショア、ケイマン、ヴァージン、パナマ。六時間で、砕ける。
「焦っている。」
稲垣は画面を見つめる。
「普通のロンダリングは半月は磨く。六時間で全工程を走るとは。」
「ケイマンへは、通知したか。」
「国際刑事の協働は、全部、就いている。」
時計を一目やる。
「金が最後のプールに入ったときが、網を収めるときだ。今は——最後の一手を待つだけだ。」
*
別荘で、香月潤は確かに最後の一手をしている。
荷物をまとめている。旅券は偽物、身分は新しい、航空券は三日後——晦の夜が終わり、儀式が済み、神楽檀の魂が永遠に鏡へ封じられれば、洗った金を持って、この世から徹底的に蒸発する。
心臓の痛みはここ二日、奇跡のように軽い。吉兆だと思った。
スーツケースを提げて書斎を通り、鬼に使われたみたいに、唯一砕いていない銅鏡の前で足が止まる。
古い鏡だ。神楽檀の祖母の遺物。古臭いと嫌って、捨てずにいた。
昏い黄の面が、顔を映す。
去ろうとしたとき、鏡の中の人間——動かない。
全身の血が一瞬で凍る。その場に立ち、鏡の「自分」は静かに立ったままだ。昏い黄を通し、まっすぐ、一寸ずつ、顔へ落ちる。
それから、鏡の中の人が口を開く。
声はない。だが口の形は恐ろしいほどはっきりしている。一字、一字、釘が目へ打ち込まれるみたいだ。
「待っ、て、い、る。」
鏡が中央から一筋、裂ける。
「ああ——!」
叫んで後退し、スーツケースを倒す。服が散り、色とりどりのスカートの中に崩れ、全身が震えて形にならない。
どれだけ経ったか、ふと這い上がり、携帯を掴み、桑婆の番号を入れ、声が裂ける。
「桑婆! 儀式を早めて! 今夜! 今夜です!!」
向こうが長く黙る。
「今夜は晦じゃない。」
「待てません! さっき鏡の中で話した! 話したんです!!」
嗄れた声で叫ぶ。
「三問三答で、魂を封じられると——今夜やってください! いくらでも出します!!」
「……馬鹿だ。」
桑婆の声が沈む。
「刻が違う。儀式の力は半分に折れる。まあいい——半分でも、封だ。連れて来い。覚えろ。子の刻の三刻、過ぎれば待たない。」
切って、床に崩れ、大きく息をする。
*
同時刻、街のもう一端。
神楽湊がソファからいきなり立ち上がり、顔が真っ白い。
「七瀬の兄さん——心臓が、痛い。」
七瀬星蘭が驚く。
「どうした!」
「分からない。いきなり痛い。誰かに引っ張られるみたいだ。」
胸を死ぬほど押さえ、涙が予告なく溢れる。なぜ泣くのか、自分でも分からない。巨大な、頭を覆う恐慌があるだけだ。
「姉さんだ。絶対、姉さんに何かが——」
氷室硯の携帯が同時に鳴る。稲垣だ。
「氷室社長、対象がたった今、城南の番号に連絡した。」
古い刑事の声が、かつてないほど重い。
「通話に『今夜』『儀式』『封魂』が出た。人間はつけている——黒い漆の木箱を持って、街を出た。」
「決着をつけに行く。」
氷室硯は外套を掴んで外へ歩き出す。
「稲垣隊長、網を早めろ。」
神楽湊が駆け寄り、腕を掴む。少年の目は真っ赤で、声はひどく震えるが、一字一字、極めてはっきり噛む。
「氷室の兄さん、俺も連れていけ。」
「姉さんは一人で、六十三日、中で耐えた。」
「今夜——迎えに行く。」




