第27話 見られる
香月潤がこの生涯で最初に覚えたのは、隠れることだ。
父が酔ったあとのベルトから隠れ、取り立てが扉を叩く深夜から隠れ、隣の子の同情の目から隠れる。
家は澄江の郡部、路地の一室。安物の白酒の匂いが散らない賃貸と、中の、いつでも目が血走った男。
香月建は、若いころは違った。
街の者は言う。母が逝った最初の二年、まだ娘に歪んだ三つ編みを結んでやった、と。
博打に染まってから、人は少しずつ腐った——まず貯金を負け、次に家を負け、最後は娘が大学に受かった学費まで盗み、卓へ賭けた。
十八歳の香月潤が麻雀屋に跪いて金を返せと頼んだとき、彼は苛立たしげに手を振っただけだ。
「消えろ! すぐ、元を取る!」
その夜、一人で賃貸へ歩き、路地の口に長く立った。顔を上げれば他人の窓から漏れる暖かい灯、俯けば自分のすり切れた爪先。
暗い窓に向かい、誓った。いつか、自分も明るい場所へ立つ、と。
確かに、必死だった。
澄江大学の四年、仕事を三つ掛け、毎年奨学金を取り、教師の口では「いちばん苦労できる子」だった。
だが努力するほど、目の前に横たわる深い溝がはっきり見えた——
苦労する人間がいる。一段、上へ行くために。苦労する人間がいる。落ちないためだけに。
神楽檀は、何もしなくても、一生届かない楼の頂上に立っていた。
二年のとき、事務棟で勤労し、会議室の掃除を担当した。
ある日、モップをかけていると、中で産学の座談が開かれていた。扉が締まりきらず、神楽檀が長い机の主位の脇に座るのが見えた——当時も十九歳、神楽を代表して奨学金の案件を話し、一室の学内幹部と企業の幹部が、皆、丁寧に聞いていた。
休憩、神楽檀が空気を吸いに出て、廊下でバケツを提げた香月潤にぶつかる。
二人。一人は裁ちのいいスーツ、一人は色の褪せたボランティアのベスト。廊下ですれ違う。神楽檀は会釈し、「お疲れ様」と言って、去った。
その三文字だ。
お疲れ様。丁寧で、体裁がよく、何の問題もない。だが香月潤はバケツを提げたまま、その場に長く立った——気づいた。丁寧なのではない。見えていないのだ。ああいう目の中で、自分は、この棟の机、椅子、バケツと、何も違わない。
全部、背景だ。
その夜、日記に書いた。
【いつか、向こうから見える場所へ立つ。】
何年もあとで分かった。その言葉自体は、間違っていない。間違ったのは選んだ道だ——自分を光らせるのではなく、他人の灯を盗む道。
香月潤が本当に神楽檀を見たのは、あの討論の決勝だ。観客席の最後列に座り、台上の万丈の光の女子を見、審査が高点を出し、満場が立ち上がって手を叩くのを見た。
向かいの台上、氷室硯という男子——東の大会の不敗——が神楽檀を見る目も、見た。
その目は、知りすぎている。宝物を見る目だ。
のち、偶遇を三度、作った。
一度目、図書館。本の束を「うっかり」氷室硯へぶつけ、本が散った。彼は拾ってくれ、礼を言って笑う。
「気をつけて。」
二度目、討論部の新歓。わざと申し込み、向かいで発言した。聞き終え、頷く。
「いい観点だ。」
三度目、学祭の酒会。二ヶ月貯めてスカートを買い、生涯の勇気を出して前へ行った。
「先輩、一杯。」
杯を上げ、丁寧で、距離がある。
「ありがとう。俺たち、知り合いでしたっけ。」
知り合いでしたっけ。
三度。まる三度。彼の目では、ずっと「誰か」で、顔のない路人だ。神楽檀という女子は何もしなくていい——存在するだけで、視線の全部を占める。
なぜ。
二字が刺になり、何年も胸に刺さった。運命だ、人と人は違う、と自分に言った。卒業し、働き、小さな会社で事務をし、薄い給料を取り、息をつきかけた——
香月建が、事を起こした。
博打で高利を借り、三百万、利子が転がり八百万。取り立てが肋骨を三本折り、依存症の施設の門前へ捨てた。施設から電話。八百万の治療費を払うか、引き取るか。
八百万。
電話を握り、賃貸の床にしゃがみ、足元の、今月届いたばかりの四万三千円を見て、ふと笑った。涙まで笑った。
この生涯の努力——灯を点けて読んだ夜、頭を下げた日、現実に泥へ踏まれてまた這い上がった日——全部足しても、「八百万」に届かない。
その夜、桐島陽が彼女を見つけた。
ある婆が古い手仕事を知っていて、人に「顔を替え、命を替える」ことができる、と言った。年の近い大人物がいて、身代は兆だ、とも。
「潤姐さん、」
桐島陽は手を擦り、目が明るい。
「神楽檀に、なりませんか。」
すぐには答えなかった。賃貸で、一晩、座った。
夜が明け、鏡の自分の顔を撫でる——端正で、疲れて、何もない顔。父に足を引っ張られ、借金に潰れ、心の人が三度「知り合いでしたっけ」と訊いた女の顔だ。
この顔は、もう要らない。
「神楽檀になる。」
鏡の自分に言う。
「あの人の一切が、欲しい。」
*
今、あの顔を持っている。
だが、自分が入れ替えた人間が、内側から少しずつ戻ってきている。
掌の鮮赤の二字から、すべてが制御を失った。別荘の鏡を全部、砕いた——姿見、化粧鏡、浴室の鏡、粉々にした。無駄だ。暗いテレビの画面、車窓の影、コーヒーの表面の反射、どこにもあの目がある。
神楽檀の目だ。自分の顔を通し、自分を見ている。
「神楽社長?」
電話が鳴る。園田健だ。
「一つ……神楽湊が、最近、ますます素直じゃなくて。介護に話を聞き、執務室の前にも寄ってくる。来月初にMECT、一クール、入れますか。電気を一発、通せば大人しくなります。以前のことも、大分、忘れます……」
携帯を握り、鏡片の中に立つ。
電気けいれん。目がますます神楽檀に似てきた少年に、察したことを全部、忘れさせる。
「やれ。」
自分の声が聞こえる。
「来月初に組め。量は訊くな。お前が見て決めろ。」
「了解っす。」
電話が切れる。香月潤が知らないのは、この通話の一字一字が、園田健の、警察に傍受されている携帯を通り、市の経偵支隊の録音機へ流れ込んでいることだ。
知らないのは、もう一つある。心臓のいちばん底で、あの声はもう長く「湊」を呼んでいない。
刀を、研いでいる。




