第26話 同盟
同盟は、その夜、形になった。
場所は七瀬星蘭名義の古いアパート——会社名を掛けず、誰の監視にも入らない安全な家だ。三人、居間の古い茶卓を囲む。氷室硯、七瀬星蘭、そして倉橋慎が夜を徹して療養院から「合法に出した」神楽湊。
少年は、あのハードカバーを抱えて来た。
「七瀬の兄さん。」
本を渡し、指がまだ震える。
「俺が記した。六十三日、飲まされた薬、死んだ人、園田健の電話、全部、中にある。」
七瀬星蘭は一頁ずつ繰り、顔色が白くなり、最後に本をいきなり閉じ、怒りで全身が震える。
「不法拘禁、薬物の濫用、この園田健は——」
「これもある。」
神楽湊は懐から、もう一台の携帯を出す。新しい。封も切っていない新しさだ。
「十八の誕生日、姉さんが買ってくれた。松山へ送られたとき、園田が取り上げた。一昨日、執務室に誰もいない隙に、盗んできた。」
氷室硯が受け取り、電源を入れる。
残量、九十一パーセント。
「ずっと、充電していた。」
神楽湊の声は冷たい。
「六十三日、俺の携帯は取り上げられた。なのに、ずっと電気がある。なぜだと思う。」
画面が点き、チャットが弾ける。最上段は「姉さん」。六十三日の記録が整然と並ぶ——
【小湊、今日、薬は飲んだ?】
【飲んだ。姉さん、忙しくして。】
【いい子ね。一段落したら会いに行く。】
【うん。】
一問一答、温かく、一日も欠かない。
「この消息は、」
神楽湊は一字一字言う。
「俺が送っていない。携帯は取り上げられ、病室に閉じ込められていた。誰かが俺の携帯を持ち、代わりに『薬を飲み』、代わりに『いい子』をし、代わりに『姉さん』と情を深めて見せた——将来、これを調べる人間のために。」
居間が、死の静寂になる。
七瀬星蘭はいきなり口を押さえる。氷室硯はその携帯を見つめ、目の底に恐ろしい嵐が渦巻く。
六十三日。事故の日から、まる六十三日、誰かが同時に「姉」と「弟」を演じ、天のような陰謀の隙間を、全部、縫い潰していた。
「届けましょう。」
七瀬星蘭は深く息を吸い、無理に冷静になる。
「だが届ける前に、万全の証拠が要る。指紋、虹彩、声、全部合う——今あるのは推測だけだ。法廷に載せられるものは、一つもない。」
「DNAだ。」
氷室硯が言う。
「彼女のDNAは取れない……」
途中で止まり、ふと気づく。
「いや、取れる。先週使ったコップを、秘書に収めさせた。洗っていない。」
「もう一つある。」
氷室硯は神楽湊を見る。
「六十三日前の事故、警察は車内から生体試料を取り、『神楽檀』と照合した。だが郊外にもう一件ある——事故の一週間前、城南の路地、賃貸が一軒、焼けた。現場に人体組織の焦げと血液カードが少量あり、引き取り手なく、身元不明で保管されている。調べた。あの部屋の借主の登記名は、香月建だ。」
神楽湊は茫然とする。
「香月建って、誰。」
「それを調べる。」
氷室硯が言う。
「倉橋が、あの血液カードをすでに取りに行っている。見当が当たれば——二通のDNAを並べれば、真相は全部、組める。」
*
三日後、二通の報告が茶卓に並ぶ。
一通目。無名の火災現場、血液カードのDNA照合——神楽グループ提出の、神楽檀の入社健診サンプルと、完全に一致。
二通目。コップから抽出したDNAと、公安の登録者・香月建の血縁鑑定——父娘関係の確率、九十九点九九パーセント。
香月建、五十一歳、澄江の郡部の人間。博打好き、治安拘留が三回。娘が一人、香月潤、二十六歳、三ヶ月前に行方不明。
七瀬星蘭は二通を持ち、手が紙を握れないほど震える。
「焼けたのは……檀さんの……」
言葉が続かない。
「香月潤が切り取った、檀の組織だ。」
氷室硯の声は、氷を焼いたように冷たい。
「換面だ。生きた人間の組織が要る。あの火が焼いたのは、犯行の痕だ——惜しいことに百の密に一つの疏、血液カードを残した。」
「生きているこの『神楽檀』は、生物学上、香月建の娘だ。」
神楽湊はソファの隅に座り、膝を抱え、最初から最後まで一言もない。この刻になって、ようやく口を開く。声は嗄れて、人の声ではない。
「じゃあ、姉さんの顔は……香月潤って女に、盗まれた。」
「顔だけじゃない。」
氷室硯が言う。
「命まで盗む気だ。事故、祭壇、『生きている神楽社長』——最初から最後まで、一つの局だ。今、局は最後の一歩に来ている。二百八十億。金を持ち、『神楽檀』がもう一度『死ぬ』。徹底的に死に、金を持ってこの世から消える。」
「じゃあ、金を持たせましょう。」
七瀬星蘭が、ふと言う。
氷室と湊が、同時に彼を見る。
「取締役会の遮断は、外す。」
目に、捨て身の光が燃える。
「二百八十億、払わせる。金が動けば、殻も、オフショアも、背後の人間も——桑だの、園田健だのも、全部、頭を出す。送金、振替、分配、一歩一歩が鉄の証拠だ。釣りです。」
「危険は。」
氷室硯は彼を見つめる。
「金が国外へ出れば、追えない。」
「だから、払う前に網を敷く。」
一字一句。
「経偵、銀行、為替の監督、全部、先に置く。この金に手を出せば、いちばん得意な瞬間に、人と贓物を揃えて獲る。」
居間が、長く静かだ。
「俺が、手配する。」
氷室硯は立ち上がり、窓辺へ歩き、また止まる。
「もう一つ。」
「檀は、まだ中にいる。」
振り返らない。声は低い。
「換面の噂は調べた。皮は旧主を覚える。悪が多いほど、檀は多く目覚める。今は痛くて、怖いはずだ。動作を速める。これからの毎日、あの身体の中の二人は、耐えている。」
神楽湊は顔を上げる。
「俺たち……姉さんに、何ができる。」
氷室硯は窓の外の夜を見て、長くしてから、ゆっくり口を開く。
「生きろ。持ちこたえろ。戻ったとき、最初の目に見せろ——弟は無事だ、会社は無事だ、何一つ失っていない、と。」
少年は強く頷き、涙が手の甲に落ちる。
「氷室の兄さん、」
ふと訊く。
「姉さんのために、ここまでして……どれだけ、待った。」
氷室硯はしばらして黙る。
「八年。」
「もし……もし、今度、戻せなかったら。」
窓辺の男が振り返る。目に血が走り、神楽湊が見たことのない、ほとんど敬虔なものが乗っている。
「次の八年を、待つ。」




