第25話 心から負けた
氷室硯が初めて神楽檀を見たのは、八年前、澄江大学の講堂だ。
四年生、学内討論部の切札。三年、東の大会を掃き、一場も負けていなかった。
決勝の日、相手の四番は高いポニーテールの女子、一年の新入生で、台上の様子はまだ青い。
口を開くまで。
総括四分。立ち上がり、第一声で会場が静まった。
「相手は今、一歩退けば海が広いと言った。だが聞きたい。——一歩退く人間に、退路が最初からないなら。」
四分で、相手の三点を全部解き、層を重ね、最後に釘を打った。
審査が点を出したとき、氷室硯は台上に座り、彼女が自軍と抱き合って歓声を上げるのを見、ふと気づく。ちっとも悔しくない。
頭にあるのは、一つの考えだけだ。この人は、本当に綺麗だ。顔ではない。光の中に立ち、一字一句、世界を言い切る姿が、綺麗だ。
討論人生、唯一の敗戦だ。
この生涯で、初めて心から負けた勝負でもある。
のち、手を尽くして彼女を訊いた。商学部の神楽檀、十八歳、神楽グループの一人娘。さらにのち、二十歳で危地を受けて神楽を継ぎ、自分は二十二で氷室を起こした——二社は同じ走路にいて、順当に宿敵になった。
商いの人間は皆、氷室と神楽は水と火だと言う。五年、三つの案件で正面からぶつかり、土地を奪い、人を引き抜き、入札で生死を殺した。
誰も知らない。南区の一戦、氷室硯はわざと負けた。
開札の一時間前、倉橋慎が入札書を前に置いた。
「氷室社長、この値なら確実です。少なくとも神楽を二ポイント、押せます。」
窓の外を見る。前夜、知らせが入ったばかりだ。神楽の資金は限界まで張り、銀行は融資を引き、取締役会は逼宮し、神楽檀は七晩、徹夜していた。南区をまた落とせば、持ちこたえないかもしれない。
「値を変えろ。」
言う。
「二ポイント、上げろ。二十億だ。」
倉橋は聞き間違えたと思った。
「は?」
「言った通りにしろ。」
その一戦、神楽は僅差で落札した。祝賀の席、神楽檀はグラスを持って前へ来て、目が鋭い。
「氷室硯、今日の値はおかしい。」
「神楽社長に負けて、心服します。」
杯を上げ、笑いに一滴の隙もない。
長く見つめ、最後に何も言わず、振り返って去った。
その金、二十億。心から負けた。
誰にも知らせるつもりはなかった——宿敵という役は、彼女のいちばん近くに立てる位置だ。敵でいれば、一手一手を調べる大義があり、どの戦にも現れ、商いの中央で光る彼女を見られる。
その秘密を、五年、守った。
六十三日前、死の知らせが届くまで。
事故は深夜の川を渡る橋で起きた。車が護欄を突き、骨格だけが焼け残った。警察は残骸から、神楽檀の身分証と所持品を見つけた。
祭壇は三日、置かれた。氷室硯は三度、行った。
三度目、祭壇にはもう人が少なかった。白黒の写真の前に立ち、冷たい眉目を見て、ふと口を開く。声はとても軽い。
「彼女じゃない。」
弔問に来ていた七瀬星蘭が、いきなり振り返る。
「氷室社長?」
「死んだのは、彼女じゃないと言っている。」
写真を見つめ、一字一字言う。
「この三日、調べた。事故区間の監視が三台、壊れていた。出来すぎだ。遺体の焼損が通常の事故の範囲を超えている。速すぎる。携帯、パソコン、私印、全部、車と一緒に焼けた——綺麗すぎる。」
「人は事故で死ぬ。だが事故は、『彼女が誰か』を証明するものを、代わりに全部は消さない。」
七瀬星蘭の顔が白くなる。
「ですがDNA……警察は車内の生体試料を照合して……」
「だから、届けない。」
氷室硯は振り返る。
「俺が、調べる。」
今、六十三日が過ぎた。桐島陽を調べ、殻を調べ、あの一句を調べた——研究開発予算は止めない。
「まだいます。」
七瀬星蘭は執務室のソファに座り、携帯を握り、目が真っ赤だ。
「氷室社長、今の問題は、彼女はどこにいるのか。位置を占めた人間は、誰なのか。」
氷室硯は長く黙る。
「法が、一つある。」
ゆっくり言う。
「今の『神楽社長』が、本物かどうか、測る。」
機会は速く来た。商会の晩餐のあと、駒井会長が小さな茶席を開き、「檀」と氷室硯の両方を名指しした。
茶が三巡し、氷室硯は何気なく口を開く。
「そういえば、来月は澄江大学の百十年祭だ。同窓会に審査で戻れと言われている。神楽さんも、討論部でしたね。」
「ええ。」
向かいの女は茶杯を置き、笑みは温婉だ。
「卒業が古くて、もう疎いです。」
「今でも、覚えている。」
氷室硯は彼女を見て、口調は懐かしげだ。
「三年の冬、討論部の屋上、大雪。一つの論点で夜中まで争い、最後に灰色のコートを俺に負けた。あの服、今でも残しています。」
茶室が一瞬、静かになる。
七瀬星蘭は身側に垂れた手を、いきなり強く握る——記録してある。氷室硯は事前に彼へ渡していた。澄江大学の討論部に屋上の活動などない。あの冬、氷室硯は神楽檀を知らない。灰色のコートは、なおさら根も葉もない。
空から捏造した、存在しない記憶だ。
本物の神楽檀は、茫然とするだけだ。偽物だけ——「神楽檀」を演じたい偽物だけが、渡された棒に沿って登る。
向かいの女が笑う。
「残していらっしゃったんですか。」
微かに目を伏せ、耳の根にちょうどいい赤みが差す。
「あんなに昔の……もう、忘れかけていました。」
どんと、胸の奥で何かが落ちる。
氷室硯の顔は動かない。むしろ優しく、一度、笑う。
「ええ。あんなに昔の。」
茶席が散ったあと、駐車場、七瀬星蘭は彼の車に座り、全身が震える。
「認めました。覚えていないのに、忘れかけた、と言った——氷室硯、存在しない記憶を、覚えているふりをした!」
「ああ。」
「だから、今の『神楽社長』は偽物だ。」
声が裂ける。
「では本物の檀さんは? 生きているのか。どこにいる!」
氷室硯はエンジンをかけ、前方を見る。ハンドルを握る手の甲に青筋が浮く。
「生きている。」
言う。
「一句は嘘をつかない。あの身体の中にいる。抗っている。俺たちを待っている。」
「今は——俺たちが、奪い返す番だ。」




