↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
顔を替えられたら、宿敵の社長が独占で守る  作者: zhaozhao


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/44

第25話 心から負けた

 氷室硯が初めて神楽檀を見たのは、八年前、澄江大学の講堂だ。


 四年生、学内討論部の切札。三年、東の大会を掃き、一場も負けていなかった。


 決勝の日、相手の四番は高いポニーテールの女子、一年の新入生で、台上の様子はまだ青い。


 口を開くまで。


 総括四分。立ち上がり、第一声で会場が静まった。


「相手は今、一歩退けば海が広いと言った。だが聞きたい。——一歩退く人間に、退路が最初からないなら。」


 四分で、相手の三点を全部解き、層を重ね、最後に釘を打った。


 審査が点を出したとき、氷室硯は台上に座り、彼女が自軍と抱き合って歓声を上げるのを見、ふと気づく。ちっとも悔しくない。


 頭にあるのは、一つの考えだけだ。この人は、本当に綺麗だ。顔ではない。光の中に立ち、一字一句、世界を言い切る姿が、綺麗だ。


 討論人生、唯一の敗戦だ。


 この生涯で、初めて心から負けた勝負でもある。


 のち、手を尽くして彼女を訊いた。商学部の神楽檀、十八歳、神楽グループの一人娘。さらにのち、二十歳で危地を受けて神楽を継ぎ、自分は二十二で氷室を起こした——二社は同じ走路にいて、順当に宿敵になった。


 商いの人間は皆、氷室と神楽は水と火だと言う。五年、三つの案件で正面からぶつかり、土地を奪い、人を引き抜き、入札で生死を殺した。


 誰も知らない。南区の一戦、氷室硯はわざと負けた。


 開札の一時間前、倉橋慎が入札書を前に置いた。


「氷室社長、この値なら確実です。少なくとも神楽を二ポイント、押せます。」


 窓の外を見る。前夜、知らせが入ったばかりだ。神楽の資金は限界まで張り、銀行は融資を引き、取締役会は逼宮し、神楽檀は七晩、徹夜していた。南区をまた落とせば、持ちこたえないかもしれない。


「値を変えろ。」


 言う。


「二ポイント、上げろ。二十億だ。」


 倉橋は聞き間違えたと思った。


「は?」


「言った通りにしろ。」


 その一戦、神楽は僅差で落札した。祝賀の席、神楽檀はグラスを持って前へ来て、目が鋭い。


「氷室硯、今日の値はおかしい。」


「神楽社長に負けて、心服します。」


 杯を上げ、笑いに一滴の隙もない。


 長く見つめ、最後に何も言わず、振り返って去った。


 その金、二十億。心から負けた。


 誰にも知らせるつもりはなかった——宿敵という役は、彼女のいちばん近くに立てる位置だ。敵でいれば、一手一手を調べる大義があり、どの戦にも現れ、商いの中央で光る彼女を見られる。


 その秘密を、五年、守った。


 六十三日前、死の知らせが届くまで。


 事故は深夜の川を渡る橋で起きた。車が護欄を突き、骨格だけが焼け残った。警察は残骸から、神楽檀の身分証と所持品を見つけた。


 祭壇は三日、置かれた。氷室硯は三度、行った。


 三度目、祭壇にはもう人が少なかった。白黒の写真の前に立ち、冷たい眉目を見て、ふと口を開く。声はとても軽い。


「彼女じゃない。」


 弔問に来ていた七瀬星蘭が、いきなり振り返る。


「氷室社長?」


「死んだのは、彼女じゃないと言っている。」


 写真を見つめ、一字一字言う。


「この三日、調べた。事故区間の監視が三台、壊れていた。出来すぎだ。遺体の焼損が通常の事故の範囲を超えている。速すぎる。携帯、パソコン、私印、全部、車と一緒に焼けた——綺麗すぎる。」

「人は事故で死ぬ。だが事故は、『彼女が誰か』を証明するものを、代わりに全部は消さない。」


 七瀬星蘭の顔が白くなる。


「ですがDNA……警察は車内の生体試料を照合して……」


「だから、届けない。」


 氷室硯は振り返る。


「俺が、調べる。」


 今、六十三日が過ぎた。桐島陽を調べ、殻を調べ、あの一句を調べた——研究開発予算は止めない。


「まだいます。」


 七瀬星蘭は執務室のソファに座り、携帯を握り、目が真っ赤だ。


「氷室社長、今の問題は、彼女はどこにいるのか。位置を占めた人間は、誰なのか。」


 氷室硯は長く黙る。


「法が、一つある。」


 ゆっくり言う。


「今の『神楽社長』が、本物かどうか、測る。」


 機会は速く来た。商会の晩餐のあと、駒井会長が小さな茶席を開き、「檀」と氷室硯の両方を名指しした。


 茶が三巡し、氷室硯は何気なく口を開く。


「そういえば、来月は澄江大学の百十年祭だ。同窓会に審査で戻れと言われている。神楽さんも、討論部でしたね。」


「ええ。」


 向かいの女は茶杯を置き、笑みは温婉だ。


「卒業が古くて、もう疎いです。」


「今でも、覚えている。」


 氷室硯は彼女を見て、口調は懐かしげだ。


「三年の冬、討論部の屋上、大雪。一つの論点で夜中まで争い、最後に灰色のコートを俺に負けた。あの服、今でも残しています。」


 茶室が一瞬、静かになる。


 七瀬星蘭は身側に垂れた手を、いきなり強く握る——記録してある。氷室硯は事前に彼へ渡していた。澄江大学の討論部に屋上の活動などない。あの冬、氷室硯は神楽檀を知らない。灰色のコートは、なおさら根も葉もない。


 空から捏造した、存在しない記憶だ。


 本物の神楽檀は、茫然とするだけだ。偽物だけ——「神楽檀」を演じたい偽物だけが、渡された棒に沿って登る。


 向かいの女が笑う。


「残していらっしゃったんですか。」


 微かに目を伏せ、耳の根にちょうどいい赤みが差す。


「あんなに昔の……もう、忘れかけていました。」


 どんと、胸の奥で何かが落ちる。


 氷室硯の顔は動かない。むしろ優しく、一度、笑う。


「ええ。あんなに昔の。」


 茶席が散ったあと、駐車場、七瀬星蘭は彼の車に座り、全身が震える。


「認めました。覚えていないのに、忘れかけた、と言った——氷室硯、存在しない記憶を、覚えているふりをした!」


「ああ。」


「だから、今の『神楽社長』は偽物だ。」


 声が裂ける。


「では本物の檀さんは? 生きているのか。どこにいる!」


 氷室硯はエンジンをかけ、前方を見る。ハンドルを握る手の甲に青筋が浮く。


「生きている。」


 言う。


「一句は嘘をつかない。あの身体の中にいる。抗っている。俺たちを待っている。」

「今は——俺たちが、奪い返す番だ。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。