第24話 弟の報復
松山ケアセンターは郊外にある。白い五階の小さな棟、塀に鉄条網が回り、門に「静養中、面会謝絶」の札が下がる。
香月潤が着いたのは、三日目の午後だ。園田健が電話で言った。神楽湊は二日、絶食している。このままでは事が起きる——死なれたら、説明がつかない、と。
来ざるを得ない。「弟をかわいがる姉」が、重病の弟を二ヶ月、療養院へ放っておく道理はない。芝居は、全うしなければならない。
「神楽社長、こちらへ。」
園田健がこびて前を案内する。
四十過ぎの男だ。白衣はいつでも埃一つなく、金縁眼鏡の奥の目はいつも細く、弥勒のように笑っている。
隔離病棟の扉が開いたとき、香月潤の顔に、ちょうどいい優しさが浮かぶ。
「湊。」
窓辺の少年が、ゆっくり振り返る。
神楽湊はかなり痩せ、病衣が空々と掛かり、顔色は紙のように白い。
だが、あの目——神楽檀と寸分違わぬ目——が恐ろしく明るい。雪原で燃える火の二筋だ。
長く、彼女を見つめる。
「姉さん。」
少年が口を開き、声は嗄れている。
「会いに来てくれた。」
「姉さん、遅れたわ。」
香月潤はベッドの脇に座り、手を伸ばして頭を撫でようとする。
「最近、会社が忙しくて。いい子にしてた? 薬は時間通り?」
神楽湊は、手を避ける。
ごくわずかに、後ろへ仰ぐ動作だ。香月潤の手が空中で強張り、何事もなかったように戻る。
「薬は時間通りです。」
園田が横で作り笑いする。
「ただ情緒が不安定で、帰りたがるとばかり。神楽社長、少しお諭しを。」
「湊、お医者さんの言うことを聞いて。」
香月潤は柔らかく言う。
「ちゃんと治して。治ったら、姉さんが家へ連れて帰るから。」
少年は俯き、長く口を開かない。
病室が恐ろしく静かだ。窓の外を風が通り、鉄条網に掛かった枯れ葉がさらさら震える。
「姉さん、」
神楽湊がふと口を開き、声はとても軽い。
「昨夜、母さんを夢に見た。」
心臓が一拍、締まる。
「母さんを、何て。」
「姉さんは最近、元気か、と訊かれた。」
顔を上げ、まっすぐ目を見る。
「元気だ、と答えた。先週も、川沿いの家へ連れて行ってくれた。母さんが生前、いちばん好きだったあの家だ。姉さん、覚えてる? あの家、ベランダから川が全部見える。」
背に薄い汗が滲む。
知らない。川沿いの家も、母との約束も、まったく知らない。頭が速く回る——乗るか。本当になければ、どうする。
「……覚えてる。」
自分の声が聞こえる。
「治ったら、また連れていく。」
神楽湊が笑う。
十九歳の少年の顔に浮かんだ笑みは、温度が一糸もないほど冷たい。
「母さんは亡くなる前、川沿いの家なんて、見ていない。」
一字一字言う。
「最期の三ヶ月、ベッドから降りられなかった。姉さん——いや、お前は姉さんじゃない。」
病室の空気が、固まる。
園田の顔色が変わる。
「神楽湊! 何を馬鹿な——」
「お前は、いったい誰だ。」
少年は死ぬほど見つめ、目の火がさらに旺んになる。
「姉さんはどこだ。姉さんを、どこへやった!!」
「湊、病気で頭が——」
香月潤は立ち上がって出ていこうとする。
「怖がったな。」
三文字が、三本の釘みたいに、その場へ釘付けにする。
神楽湊はベッドから降り、裸足で床に立ち、一歩ずつ迫る。半頭、低い。柴みたいに痩せている。だが目の中のものが、無意識に後退させる。
「当たったから、怖がった。」
一歩、迫る。
「俺を見られない。姉さんは俺を見るとき、逃げない。」
「黙れ。」
「姉さんの顔を占め、家を占め、会社を占めて——夜、眠れるのか。毎晩、夢の中で俺の名を呼んでないか。聞こえたぞ。」
神楽湊は笑い、涙まで出る。
「この二ヶ月、毎晩呼んだ。姉さん——姉さん——聞こえたか。心臓、痛いか。」
「黙れと言っている!!」
パン——!
よく響く平手だ。
香月潤は全力を使った。少年の頭が横へ飛び、蒼白い頬に指の痕が浮かび、口角から血が滲む。
病室が、死の静寂になる。
次の瞬間、心臓が轟と劇痛を爆ぜる——これまでのどれより猛い。胸の中で誰かが火を点けたみたいだ。目の前が暗くなり、よろめいて壁を支え、喉から抑えきれない痛みが溢れる。
その劇痛の底で、はっきり聴こえる。鼓膜に貼りつくほど近い。
「よくも、彼を叩いた。」
四文字が、骨髄まで寒い。
「神楽社長! どうされました!」
園田が慌てて支えに来る。
「どけ!」
振り払い、よろよろ病室を飛び出し、廊下の端の洗面所へ飛び込み、鍵をかけ、洗面台を支えて激しく息をする。
鏡の顔は、鬼のように白い。
病室では、神楽湊がゆっくり身を起こし、手を上げて口角の血を拭く。
痛くなど、ない。
さっき、平手が落ちた瞬間、はっきり見えたからだ——姉さんの顔の、目の奥で、何かが一瞬、目覚めた。
怒りではない。慈しみだ。
姉さんが自分を見る目だ。十九年、見てきた、あの目だ。
「姉さん……」
少年は誰もいない入口に向かい、声なく唇を動かし、涙がようやく落ちる。
聞こえた。本当に、聞こえた。
*
その夜、神楽湊はベッドに伏せ、床板の下から掌大のハードカバーを出す。
入院時、ナースステーションが渡した「回復日記」だ。六十日余り、一日も欠かさず書いた。日記ではない——
【九月十四日、晴。園田健が新しい薬を足した。飲むと手が震え、字が書けない。飲んだふりをして、舌の下に隠して吐いた。】
【九月二十三日、夜、三号室が泣くのが聞こえた。朝、人がいなかった。介護は転院だと言った。信じない。】
【十月二日、「姉さん」から電話。声は姉さんだ。だが「小湊」と呼んだ。姉さんは小湊なんて呼ばない。湊か、この臭い小僧だ。】
【十月十九日、園田が誰かと電話し、「あのお嬢さん」と「残金」を出した。扉の隙間に三十分、貼りついた。姉さん、誰だか、見当がついた。】
一頁一頁、びっしりだ。少年の字は整から乱れへ、乱れから震えへ、震えから再び堅くなる。
本を床板の下へ戻し、仰向けになり、天井を目を開けて見る。
「姉さん、」
心の中で言う。
「もう少し、待っててくれ。」
「奴らの罪は、一条一条、全部記した。迎えに来たら、この手で渡す。」




