第23話 暗語
月曜午前九時、神楽グループビル四十三階。
「氷室社長、分かりました。」
倉橋慎が早足で執務室へ入り、ファイルを机へ叩きつける。
「南区プロジェクト、神楽の出資は二百八十億、来週月曜に送金です。受取は『星業建設』。ケイマン登記、三層のオフショアで包み、最終受益者は追えません。だが、別のものが——星業建設は設立から八ヶ月、一件も落札していない。施工資格は一寸もない。口座の流れは白紙みたいに綺麗です。」
「殻だ。」
氷室硯はファイルを見つめ、目が冷たい。
「徹頭徹尾の殻です。二百八十億が一度出れば、三層のオフショアを通り、六時間で砕ける。追っても戻りません。」
倉橋は声を落とす。
「氷室社長、神楽を空にする気です。二百八十億は、ちょうど動かせる流動資金の三割——即座に昏倒させず、一気に底力を抜く線に、ぴったり乗っています。この局を組んだ人間は、精すぎます。」
氷室硯は立ち上がり、窓の前へ歩く。
来週月曜。今日から、六日しかない。
「七瀬星蘭のほうは。」
「おっしゃった通り、取締役会の古参へ、すでに通しています。」
倉橋が言う。
「駒井会長が出て、『重大案件は追加デューデリが必要』を理由に、送金を一週間猶予するよう求めました。取締役会は可決、七対二。『神楽檀』は会議で、一句も言えませんでした。」
「言えるわけがない。」
氷室硯は冷笑する。
「駒井会長に机を叩けば、明日、澄江中が『神楽社長』の異常を知る。誰より、馬脚を怖がっている。」
遮断は成功した。少なくとも、真相のために七日を稼いだ。
*
正午十二時、神楽ビル最上階の執務室。
香月潤は三杯目のグラスを割った。
「一週間猶予?!」
携帯を死ぬほど握り、指の節が白い。
「追加デューデリとは何だ! 星業の資格書類は、この私が——」
電話の向こう、桐島陽が唯々諾々とする。
「姐さん、取締役会は正規の手続きです。駒井会長が自ら提案して、誰も穴を突けません。もう……待ったほうが。」
待つ?
目の前が暗くなる。晦の夜は十一日後。儀式、送金、出国、どれも日取りに噛み合っている。この「猶予」は、計画を全部、粉々にする。
偶然か。それとも——
氷室硯。
その名が一回、浮いた瞬間、心臓がいきなり縮み、劇痛が山を倒し海を覆うみたいに爆ぜる。
「うっ——」
低く唸り、椅子から滑り落ち、絨毯へ跪く。痛い。痛すぎる。胸の中で手が、心臓を一寸ずつ裂いているみたいだ。口を開けても声が出ず、目の前に白い光が破片になって爆ぜる。
意識が劇痛に呑まれる最後の一瞬、あの声が聞こえた気がした。
日々夜々、心臓の奥で呼びかけていた声が、今度は目前に近い。冷静で、はっきりして、火を通した恨みが乗っている。
「今は、私の番だ。」
目の前が、黒い。
——
どれだけ経ったか、分からない。
一分かもしれない。一世紀かもしれない。
「香月潤」は絨毯から、ゆっくり身体を支える。
だが、目が開いたとき、中身は徹底的に変わっていた——温婉は褪せ、空洞は褪せ、残るのは寒潭のように沈静な鋭さだ。俯いて、微かに震える両手を見る。薬指の、馴染みの、神楽檀の指輪を見る。目尻が、いきなり赤くなる。
戻った。
たとえ一瞬でも——戻った。
神楽檀に、泣く時間はない。机の角を支えて立ち上がり、歩みが速すぎてよろめき、机の携帯を掴む。画面が点き、暗号を求める——指が意識より速く、六桁を一気に打つ。香月潤は、これすら変えていなかった。
七瀬星蘭のチャットを見つけ、指が画面を速く叩く。
【研究開発予算は止めない】
送信。
一句だけ。この暗語だけだ——六年前の雪の夜、二十歳の自分が二十四歳の特助に言った、神楽の第一の鉄則。香月潤はすべてを真似できる。この一句だけは、知らない。
送り終え、主導権が緩み始める。闇が意識の縁から満ち、見えない手が、再び淵へ引きずり戻そうとする。
足りない。まだ足りない。
神楽檀は化粧台へ飛び、口紅を一本掴み、捻り、震えながら左手の掌へ、力を込めて二字を書く。
もうすぐだ。
鮮赤の二字が、蒼白い掌に落ちる。血のようで、火のようで、世界へ立てた誓いのようだ。
闇が轟と閉じる。
——
再び目を開けたとき、香月潤は化粧台前の絨毯に崩れ、大きく息をしている。
どうして机からここへ来たか、分からない。途切れた——さっきの劇痛のあと、しばらく、この身体が何をしたか、まったく分からない。
鏡の顔は、紙のように白い。
台を支えて立とうとして、視線が左手で、いきなり固まる。
掌に、鮮赤の口紅。筆鋒は鋭く、掌の紋まで貫いている——
もうすぐだ。
「ああ——!!」
凄まじい叫びが、別荘の静寂を裂く。香月潤は狂ったように浴室へ飛び、左手を洗面器へ押し、蛇口を開けて必死に擦る。口紅が暈け、器いっぱいに赤が満ち、血の水だ。
字は落ちた。掌が痛くなるまで擦った。だが、目に烙かれた二字は、落ちない。
もうすぐだ。もうすぐだ。もうすぐだ。
中にいる。ずっと中にいる。もうすぐ、出てくる。
浴室の冷たいタイルに崩れ、頭を抱え、風の落ち葉みたいに全身が震える。
*
同時刻、街のもう一端。
七瀬星蘭は画面の一句を、まる一分、見つめる。それから固定電話をいきなり掴み、連絡先の一番上の番号を入れ、声が興奮で震える。
「氷室社長——彼女から、連絡が来ました。」
「研究開発予算は止めない。氷室硯、これが何を意味するか、分かりますか。」
「彼女です! 彼女だけが、そう言う! まだいる——本当に、まだいる!」
向こうが二秒、黙る。
「星蘭。」
氷室硯の声が届く。圧しを利かせた石のように安定している。
「聞け。第一、この消息は、お前と俺以外、第三者に知らせるな——取締役会もだめだ。人は多く、口は多い。第二、会社からお前の携帯まで、この消息は彼女の携帯を通った。さっき、短く主導権を取り戻した、ということだ——時間は長くない。天のような険を冒した。」
「第三、」
一字一字言う。
「動き始めた。中の人間が外へ消息を渡し始めた。力を貯めた、ということだ。外にいる俺たちが、受け止めなければいけない。」
七瀬星蘭は電話を握り、強く頷き、相手に見えないと気づいて、強く言う。
「分かりました!」
切ったあと、一人、執務室に長く立つ。
それから窓辺へ歩き、下の車の河を見て、四十一日、胸で転がしてきた言葉を、ようやく声にする。
「神楽社長、待っていてください。」
「特助も、取締役会も、あなたの……宿敵も、ここにいます。」
窓の外の空は半月、陰っていた。その日の夕方、破天荒に、一線、晴れた。




