第20話 誰にも認められない
七瀬星蘭には、鍵のかかった引き出しがある。
中に、黒いルーズリーフのノートが眠っている。表紙に印はない。四十数日前から、このノートは毎晩取り出され、スタンドの下で数頁、足されてきた。
いちばん新しい頁に、彼は書く。
【四十一日目。
本日の記録:
一、朝会、神楽社長が南区新エネルギー素材実験室の二期予算を否決。当該案件は昨年、彼女自身が旗を振って立案したもの。立案会合で彼女は言った。「研究開発予算は誰も動かせない。神楽の命綱だ。」(第三条の記録を見よ)
二、午後の休憩、いつもの通りアメリカーノを届けた。彼女は眉を寄せ、秘書に砂糖を足させろと言った。——五年付いてきた神楽社長は、アメリカーノに砂糖を入れない。彼女は言った。「苦さは人を醒ます。砂糖は舌を麻痺させるだけだ。」
三、退勤前、決裁十二通。署名を一通ずつ照合した。筆鋒は合い、構造は合う。だが収筆の習慣が違う。神楽社長が「檀」の字を書くとき、最後の払いは必ず三ミリ上へ跳ねる。鞘を払った刀のようだ。この十二通の払いは、全部平たい。真似は懸命だが、刀は鞘に収まっている。】
ここまで書いて、七瀬星蘭は筆を止め、酸えた目を揉む。
四十七頁。このノートは、すでに四十七頁ある。
最初は職業的な敏感だけだった——戦略部長であり、神楽檀の特助でもある。四年、この世の誰より神楽檀の仕事の習慣を知っている。目つき一つで、どのファイルを用意すべきか分かる。サインのとき手首が浮く高さを、目を閉じても描ける。
だから「神楽檀」が一ヶ月余り前に会社へ再び現れたとき、七瀬星蘭は三日で確認した。この人間は、おかしい。
どこが、ではない。どこも、おかしい。
ノートのいちばん前の総括頁を繰る。赤ペンで作った対照表だ——左が「以前の神楽社長」、右が「今の神楽社長」。
【起居:以前の神楽社長、七時十五分出社、誤差五分以内。守衛の田所は彼女で時計を合わせられた。今の神楽社長、八時半から九時四十分のあいだに無作為に現れる。】
【歩幅:以前の神楽社長、歩幅は七十センチで一定、玄関ホールからエレベーター口まで三十四歩で一定。今の神楽社長、歩幅が大小し、ヒールのとき特に目立つ——真似しているが、筋の記憶は制御できない。】
【決裁の習慣:以前の神楽社長は書類を、古い万年筆で見る。注記は必ず頁の右端。今の神楽社長はサインペンで、注記の位置は無作為、言い回しが冗長——神楽社長の注記は六字を超えたことがない。】
【食事:アメリカーノに砂糖なし。昼は油を控え、鶏胸肉は絶対に食べない(軽度のアレルギーで発疹が出る)。茶は明前の龍井だけ。今の神楽社長——先週、秘書が取った軽食サラダに鶏胸肉が入り、全部食べ、何ともなかった。】
【取締役会への応対:以前の神楽社長、古参取締役が難癖を付けるとき、右手の親指が左手の掌を押さえる。怒りを抑える習慣だ。今の神楽社長、疑われると先に笑う。穏やかで体裁がいい——神楽檀は、自分を疑う人間に笑わない。決まりはこうだ。疑いはいい。データを出せ。】
一条一条、びっしりだ。
七瀬星蘭はノートを閉じ、引き出しに鍵をかけ、鍵は身につけて収める。
警察へ行こうと思わなかったわけではない。だが、何と言う。「神楽社長は入れ替わっていると思う」か。警察は証拠を出せと言う。自分の証拠は歩幅、コーヒー、サインの収筆三ミリ——専門鑑定の前では一文の値打ちもない。指紋は合う。虹彩は合う。DNAは取れない。声まで寸分違わない。
誰もが、自分が狂ったと言うだろう。
まして——顔を上げ、執務室の外側を一目やる。電話を取っているあのしなやかな後ろ姿——この「神楽檀」が偽物なら、本物の神楽檀は、どこにいる。
その問いが、毎晩、眠れなくさせる。
そのとき、携帯が震える。七瀬星蘭は着信表示を一目見て、微かに固まる。
氷室硯。
その名を二秒見つめ、出る。
「氷室社長。」
「七瀬部長。」
向こうの声はいつものように低く冷静だが、避けられない鋭さが乗っている。
「話が、必要だと思う。」
心臓が一拍、抜ける。
「何を、ですか。」
向こうが、しばし黙る。
「君の引き出しの、あのノートの話だ。」
氷室硯は一字一字言う。
「君の神楽社長が、本物かどうか、の話だ。」
七瀬星蘭は携帯を握り、ゆっくり立ち上がる。窓の外、都心の灯が星の海みたいに連なる。ガラスに映る自分の姿は青白く、目だけが恐ろしく明るい。
四十一日だ。一人でこの恐ろしい推測を、まるまる四十一日、守ってきた。
「氷室社長、」
自分の声が聴こえる。軽いが、安定している。
「どこにいらっしゃいます。伺います。」
「それと——」
一拍置き、一字一句言う。
「教えてください。あなたも、見抜いたのだと。教えてください。私は、一人ではないのだと。」




