第18話 空いた席
倉橋慎の効率は、いつだって高い。
翌日午後、分厚い調査報告が氷室硯の執務机に置かれる。
「氷室社長、別荘のほうは調べました。」
倉橋は机の前に立ち、表情が少し妙だ。
「ここ一ヶ月の来客記録が……きれいすぎます。」
報告を繰る手が、一拍止まる。
「きれいすぎる?」
「神楽檀は、以前そういう人ではありませんでした。」
倉橋は言葉を選ぶ。
「六年、権を握っていたあいだ、別荘には週に三四組は来客がありました。幹部、弁護士、監査。会議を家で開くこともあった。ところがこの一ヶ月、定期の清掃と庭師以外、誰も入っていない。宅配も同じです。以前は週に五六件、書類のやり取りがあった。今は……一件もありません。」
氷室硯は背もたれへ凭れ、指先が机を軽く叩く。
人は一夜で服装を変え、話し方を変え、好みさえ変えられる。だが六年維持した仕事の習慣は、切ろうと思って切れるものではない。
よほど——誰にも近づかせたくない、ということだ。
「桐島陽は。」
「見つかりました。」
倉橋が報告の二頁目を開く。
「桐島陽、二十六歳。自称フリーの写真家、要するにパパラッチです。三年前、恐喝で十五日拘留されたあと、ずっと灰色の地帯で食いつないでいます。富豪と芸能人を専門に追い、写真売りと封口料で生きている。」
一拍置く。
「重点はこれです——三ヶ月前、桐島陽が抱えていた賭博の借金を、元も利子もまとめて一度に返しています。八百七十万。」
「八百七十万。」
氷室硯がその数字を繰り返す。
「はい。盗撮で食うパパラッチが、いきなり現金八百七十万を出して借金を返す。」
倉橋は声を落とす。
「出所は追えません。現金で分割入金していて、手口が老練です。しかも——返済から一週間も経たないうちに、神楽檀の別荘の近くに頻繁に現れ始めます。物件の監視に四回映っています。どれも深夜、どれも通用門です。」
氷室硯の視線が、報告の中の盗撮写真へ落ちる。
写真の桐島陽は色の褪せた黒いジャケットを着、別荘の通用門の影に立ち、少し背を丸め、顔に、媚びるような、ほとんど諂うような笑みが乗っている。向かい側に立つ人間は——「神楽檀」だ。
部屋着で、髪をゆるくまとめ、顔を下げて桐島陽に何か言っている。
街灯の光が横顔に落ち、氷室硯が見たことのない表情だ。交渉卓の鋭さでも、酒会の展示場の穏やかさでもない。上から見下ろす、施しのような忍耐だ。
主人と犬だ。
写真を机へ戻し、目を閉じる。
八年だ。神楽檀を知って八年。大学討論の決勝台から、商いの五年の刃まで。意気揚々な姿も、決裁の姿も、午前三時の執務室で疲れて眉間を揉む姿も、見てきた。
人に借りを作らせず、勢いで人を圧しない。誇りは骨に刻んである。清掃の人にまで「ありがとう」と言う人間が、ああいう目で誰かを見るはずがない。
「氷室社長?」
倉橋が用心深く口を開く。
「まだ、調べますか。」
「調べろ。」
氷室硯は目を開け、底が冷たく沈む。
「三ヶ月前、神楽檀の周りで何が起きたか。全部だ——どこへ行き、誰に会い、会社にどんな異常な人事があったか。一筆一筆、全部出せ。」
倉橋は応じて下がる。
執務室が静かになる。氷室硯は全面ガラスの前へ歩き、下を流れる車の河を見る。親指が無意識に掌を押さえ、ゆっくり締まる。
檀、お前はいったい、どうした。
*
同じ刻、別荘。
香月潤は携帯をソファへ叩きつけ、画面が一瞬光る。桐島陽のメッセージだ。
【神楽さん、物件のほうで監視のことを訊かれました。聞いたところ、氷室の人間が調べているらしい。】
氷室硯。
香月潤はリビングの中央に立ち、胸が激しく上下する。酒会のあの男の目を、今でも覚えている——顔を見ていながら、視線はこの皮を突き抜け、中を見ようとしていた。
「下心のある接近か……」
独り言し、ふと冷笑する。
「氷室硯、自分が誰だと思ってる。」
リビングを往復し、爪が掌へ食い込む。いけない、もう待っていられない。氷室硯はすでに疑い、七瀬星蘭のほうもますます扱いづらい——昨日、あの特助は報告のとき長く見つめてきた。背が冷える目だった。
進度を速めなければならない。
携帯を取り直し、番号を入れ、声を低くする。
「南区の契約、来週月曜までに最終版を見たい。そう、条項はこれまでの話の通り、支払条件は一字も変えるな。」
切って、書斎へ歩き、神楽檀のパソコンを開く。
南区ニュータウン開発。総投資額九百三十億、神楽の持分は三十パーセント、出資は二百八十億。この数字は、ちょうど神楽グループが動かせる流動資金の三割だ。
三割。
画面の数字を見つめ、目に暗い火が二筋、燃える。この金を打ち出し、半年前から仕込んでおいたペーパーカンパニーの口座へ入れれば、完全に消えることができる——二百八十億を持って、誰も自分を知らない場所へ。
神楽の資金繰りが切れるかどうか、崩れるかどうか——自分に何の関係がある。
自分の顔を撫でる。鏡は書斎の壁に掛かっている。鏡の人間は眉目が精緻で、気質は冷たい。澄江市の誰もが畏れる神楽社長だ。
「神楽檀、」
鏡に向かって低く言う。
「お前のすべては、もうすぐ私のものだ。名は、享受した。金は、持っていく。」
鏡の人間の口角が、わずかに上がる。
その瞬間、心臓が予告なく痙攣し、見えない手に強く掴まれたみたいだ。
香月潤は痛みで腰を曲げ、机を支え、大きく息をする。初めてではない——ここ数日、この動悸がますます頻繁だ。とくに神楽を算段し、あの姉弟を算段するときに。
「桑婆が言っていた……正常な拒絶反応だ。」
歯を食いしばって自分を慰める。
「乗り越えればいい。乗り越えれば、私があの人だ。」
窓の外、夜が四面から閉じる。
彼女が見ていないのは、痛みで腰を曲げたその瞬間、鏡の中の「神楽檀」の目が、一瞬、冷えたことだ。
眠っている人間が、闇の奥で、指を動かしたみたいに。




