第17話 見破っても、言わない
「あなた、ずっと私を調べていた。」
神楽檀は彼を見る。疑問ではなく、陳述だ。
「ああ。」
氷室硯は否定しない。
「個室で、俺に携帯を寄越せと言った日からだ。」
「別荘の扉は、どうやって入った。」
「人事ファイルは見た。この別荘の物件マネージャーは、氷室ホテルグループから出した人間だ。」
氷室硯は雲を払うように言う。
「弟が療養院へ送られたあと、ここを見張らせた。今夜、物件から上がってきた。見知らぬ男がお前の門へ入った、と。」
一拍置き、目の底を寒さが掠める。
「お前を狙ったと思った。まさか、彼女が自分で呼んだとは。」
神楽檀は黙る。
香月潤が自分の顔で、男を自分の別荘へ呼んだ。間に合わなければ——その先は、考えたくない。
ソファを支えて立とうとして、四肢が一気に緩み、危うく滑る。氷室硯が目にも留まらず支え、全身が彼の胸へぶつかる。冷たい杉の香りが、瞬時に包む。
蠱毒の痛みが、体温に沿って少しずつ潮が引く。
だが今回は、明らかに違う。
以前ほど激しくなく、以前ほど長くない。前回よりずっと軽く、岸へ届く前に潮が引き始めたみたいだ。
眉を寄せる。
「おかしい。」
「どこが。」
「以前、目覚めるたび身体が痛くて、立てなかった。」
自分の手を見る。
「でも今回は、ずっと軽い。」
同時に、身体は異常なほど弱い。風が吹けば巻き上げられ、散ってしまいそうだ。
氷室硯は答えず、考え込む。
神楽檀は深く考える暇がなく、ソファの携帯を取り、最近のメッセージを速く繰る。
会社、案件、弟——一条ずつ。海外案件は案の定、香月潤が手柄にして会議へ上げた。会社に新しい乱れは、今のところない。弟のほうは……
指が止まる。
画面に、芹沢すみれが三日前に送った行程報告が、未読のままある。
【神楽社長、松山ケアセンターの手続きは完了し、ご令弟は火曜に転入済みです。】
松山。
その名を黙って唱え、指先が冷たい。
安寧療養院は城北、車で四十分。松山ケアセンターは隣市の山中、入るのに許可が要り、面会は一週間前の申請——香月潤は湊を、自分の世界から根ごと引き抜こうとしている。
「氷室硯。」
ふと、低く口を開く。
「ん。」
「もしある日……」
一拍置く。
「私が、本当に消えたら。」
身体の奥へ押し戻される消滅ではない。徹底的に、二度と目覚めない消滅だ。
氷室硯は彼女を見て、すぐには答えない。
「ならない。」
「どうして分かる。」
「お前が戻るたび、最初にやることは人を助けるからだ。」
ゆっくり言う。定理を述べるみたいだ。
「一度目は会社を救った。二度目は古参を救った。今回は——」
視線が、赤い手首へ落ちる。
「命がけでも、この身体の最後の綺麗さを守った。」
「そういう人間は、簡単には消えない。」
神楽檀は呆け、ふと一度笑う。
「私に、自信がありすぎない?」
「違う。」
言う。
「お前を、信じている。」
四文字は軽くも重くもなく、深潭へ石を投げたみたいだ。
何年も前の雪の夜を、ふと思い出す。
神楽を継いだばかりで、株主総会に深夜まで囲まれ、一人、会社の下で車を待っていた。
雪がひどく、黒い車が一台、前で三十秒止まり、窓は黒いまま、走り去った。
翌日、その七人の資金繰りが、同時に壊れた。
誰だか、ずっと分からなかった。
今、少し分かった気がする。
神楽檀は目を伏せる。二十六年生きて、お世辞も約束も聞きすぎた。その短い言葉だけが、胸を打ち震わせる。
そのとき、頭が一気に空になる。
いつもの劇痛とは違う。柔らかく奪われる感じで、遅いが強く、身体の中から糸を抜かれるみたいだ。視界がぼやけ、手足の感覚が速く褪せる。
胸の内で、すぐ分かる——期限だ。
今回の目覚めは短すぎて、弟がどこへ転院したか、訊く暇さえなかった。
「氷室硯。」
袖口を掴み、声がもう漂う。
「湊が……転院させられた……お願い……」
「分かっている。」
氷室硯は手を返して手首を握り、力は安定している。
「全部、分かっている。行け。俺が守る。」
最後に一目見る。目の底に、言いようのない動揺と、名残が隠れている。
次の瞬間、意識が完全に引き抜かれる。
身体が再び目を開け、底にあるのは慌て、弱さ、ちょうどいい無実だけだ。
香月潤が主導権を奪い返した一秒目、すぐ手を上げて肩のスーツの上着を掴み、肩を縮め、驚いた体を装う。顔を上げて氷室硯を見、目尻を赤くし、声を柔らかく震わせる。
「氷室社長……どうして、急にいらっしゃったんですか。」
演技は完璧だ。また、風情があり、従順で、憐れみを誘う「神楽檀」だ。
氷室硯は静かに彼女を見て、口を開かない。
さっきまでの優しさは全部褪せ、深い寒さだけが残る。
香月潤はその目に心底慌てるが、頭を硬くして演じ続ける。
目を揉み、怯えた声で説明する。
「さっきの男は、仕事で無理に押しつけられた接待の人脈で、会いたくなんてなかったんです。乱暴になるなんて……来てくださって、本当に助かりました。死ぬほど怖かった。」
自分から呼んだ事実を意図的に弱め、過ちを全部他人へ押し、まったく無実の被害者の体を作る。
言い終え、用心深く氷室硯の袖口を引き、小さく揺らす。昔から使っている、他人を籠絡する小さな動作だ。これまで、外れたことがない。
「氷室社長、私のこと……誤解したりしませんか。」
氷室硯は目を伏せ、袖口を引く手を見る。
指先は温かく、姿勢は親しい。だが目の底に、温度は一分もない。
分かっている。さっきこの身体の中にあった、刺すような嫌悪、極限の距離、言い終えなかった「お願い」こそが本物だ。今の弱々しい甘えは、全部、作り物だ。
ゆっくり手を上げ、握り返しもせず、振り払いもしない。ただ軽く手首を押さえ、力は重くないが、絶対の支配が乗っている。
長くして、薄い唇が軽く開く。喜怒は読めない口調だ。
「しない。」
香月潤は一瞬で息を吐き、目の底を密かな喜びが掠める。
よかった。氷室硯は信じた。
頭を下げ、口角の笑みを隠し、声をますます柔らかくする。
「ありがとうございます、氷室社長。今夜……部屋まで送っていただけませんか。怖いんです。」
「入口まで送る。」
氷室硯は手を引き、半歩下がって距離を取る。
「会社に用がある。」
加減はちょうどいい——一歩近づければ彼女を驚かせ、一歩退けばまだ希望があると思わせる。
香月潤は素直に頷き、肩のスーツの上着をきつく纏う。
入口まで来て、振り返る。
「お洋服は……」
「置いていけ。」
氷室硯は言う。
「寒い。」
車の扉が閉まったあと、氷室硯の顔の温度が、一寸ずつ冷えていく。
携帯を出し、倉橋慎の電話を入れる。
「調べろ。神楽檀のこの別荘、ここ一ヶ月の来客記録、宅配記録、監視を全部だ。」
「それと、」
夜を見て、声が氷を焼いたみたいに冷たい。
「桐島陽という男を、根まで調べろ。」




