第16話 蠱を解いてやる
次の瞬間、身体の主導権は完全に主を替える。
さっきまでの柔らかさも媚態も、一瞬で綺麗に消える。
神楽檀は目を開け、最初に感じたのは冷——大理石の台が肌に貼りつく冷だ。
二番目は吐き気——見知らぬ手が手首を押さえ、見知らぬ顔が上から覆い掛かってくる。
男の唇が触れそうになった瞬間、膝を思い切り曲げて胸に当て、全力で外へ押す。
「離せ。」
桐島陽は異変に気づかず、逃げて誘っているのだと思い、手の力をかえって強め、貼りついて低く笑う。
「恥ずかしがってる? 大丈夫、すぐ気持ちよくなる。」
息が顔に噴き、酒気を帯びている。見知らぬ接触が肌に粘りつき、生理的な吐き気が波になって上がる。
神楽檀は歯を食いしばり、体内で蠱毒が掻き回す劇痛に耐え、声を刺すほど冷たくする。
「もう一度言う。——私から、手を離せ。」
桐島陽は、ようやくおかしいと薄く気づく。
目の前の顔は相変わらず艶やかだが、目つきが完全に変わった。
さっきの曖昧も温存もなく、冷たい嫌悪と距離だけだ。食卓に這い上がったゴキブリを見るみたいだ。
だが心を砕いて神楽の線に乗ったのだ。手をかけたところで、引くはずがない。
退かず、かえって身を屈めて一歩近づき、手首を掴む手をさらに締める。
「神楽社長、このタイミングで清楚ぶっても、つまらないですよ——」
手首が痺れ、身体を封じられて動けない。神楽檀は歯を死ぬほど噛む。
これは自分の身体だ。
二十六年、綺麗なままで、人とこんな風に親しくなったことなど一度もない。今、見知らぬ男に押さえられ、好き勝手に軽んじられている。怒りが蠱毒と混ざり、胸腔で燃える。腕の骨が外れる覚悟で跳ねのけようと力を貯めた——そのとき。
カチッ。
別荘の大門が、外から押して開く。
呼び鈴もない。通報もない。蝶番の音は軽いのに、満室の曖昧を割く雷のようだ。
リビングの灯は明るい。玄関だけに、影が乗っている。
氷室硯が、入口に立つ。
黒いスーツは真っ直ぐで端正、肩の線は冷たく硬い。周囲が、恐ろしく静かだ。
顔に表情はない。視線が掃いて来て、バーカウンターの方角へ、安定して落ちる——剥き出しの肩へ、男が腰を掴んでいる手へ、二人の曖昧に絡んだ姿勢へ。
数秒、死の静寂。
桐島陽は遅れて振り返り、入口の人間を見て、顔色が一気に白くなり、無意識に手を放し、慌てて台の前から半歩退く。
氷室硯が誰か、澄江市で彼よりよく知る人間はいない。本当に澄江を掌に収めた人物で、手段は酷く、情面など一切ない。
「ひ、氷室社長……」
声まで震え、さっきの放縦は跡形もない。
氷室硯は、彼を見ない。
視線は最初から神楽檀に鎖され、重く、息をつかせない。
一歩ずつ近づく。歩みは速くない。革靴が大理石に落ちるたび、人の心の先を踏むみたいだ。
目の前に立ち止まり、やっと目を上げて桐島陽を見る。声は極めて低く、極めて冷たい。
「誰が、彼女に触れていいと言った。」
一句に起伏はない。だが、すべてを碾き潰す圧が乗っている。
桐島陽の背が瞬時に濡れ、舌が絡まる。
「氷室社長、誤解です! 神楽社長が自分から呼んだんです。本当に、ただ——」
「黙れ。」
氷室硯は淡く遮り、弁解の一字も聞こうとしない。
前へ、一歩出る。
背が高い。上から人を見るとき、山が圧してくるみたいだ。
その目に怒りもなく、火もない。底の見えない寒さだけだ——澄江を渡ってきた人間なら知っている。氷室硯が本当に怒ったときは、怒鳴りも殴りもしない。この静けさだ。
「さっき、どちらの手が、彼女に触れた。」
桐島陽の顔から、血の色が綺麗に退く。
「今すぐ、目の前から消えろ。」
一拍置き、口調は軽くて残酷だ。
「次に彼女へ半歩でも近づいたところを見たら、澄江にいる必要はない。」
桐島陽は魂が飛び、もう一句も残す勇気がない。
転げるようにソファの上着を掴み、よろよろ外へ逃げる。出るとき、慌てて額を枠にぶつけた。
大門が重く閉まる。
広い別荘が一瞬で静かになり、二人だけが残る。
神楽檀はバーカウンターに座り、裾は乱れ、肩紐は滑り、手首が赤くなっている。
みっともなさ、屈辱、吐き気、痛みが層になって圧し、指先が痺れる。
滑った肩紐を無意識に寄せ、外に晒された肌を隠そうとする。
氷室硯の動作のほうが速い。
手を上げてスーツの上着を脱ぎ、身を屈め、そっと肩へかける。
暗い生地に、彼の身体の冷たい杉の香りが乗り、一瞬で、さっきの見知らぬ温度と汚さを隔てる。
指先は極めて軽く、滑った肩紐を少し上げてやる。動作は抑制されて優しく、さっき傍らの男を威した酷さと、別人のようだ。
「歩けるか。」
訊く。
神楽檀はカウンターを支えて試す。脚はまだ柔らかい。
氷室硯はもう訊かず、ソファから薄い毛布を取り、脚に巻き、横抱きにして数歩ソファの前まで行き、そっと下ろす。動作は、千回やってきたみたいに馴れている。
「氷室硯、」
前襟を掴み、声が嗄れる。
「見られたら——」
「この別荘は、」
毛布の端を直してやり、視線は前へ向ける。
「お前と俺以外、第三者はいない。」
神楽檀は目を伏せ、心が乱れる。
なぜ来た。なぜ入れた。
頭の中で無数の問いが回り、出口に残ったのは一句だけだ。
「どうして、来たの。」
氷室硯は身を屈め、目を同じ高さにする。
その深い眸に、探りも惑いもない。恐ろしく近い確信だけがある。
「蠱の痛みを、解いてやる。」
低く、一字一字、はっきり言う。
「分かっている。戻ってきたのは、お前だ。」
「神楽檀。」
最後の三文字は、とても軽い。何かを砕くのを恐れているみたいで、失って戻った宝物を確認しているみたいでもある。
神楽檀は顔を上げ、彼の目にぶつかる。
知っている。何もかも、知っている。
この日々、自分のものではない身体の中で孤軍奮闘し、目覚めるたびに計算し、一分一分を数え、誰も信じられなかった。
この男——五年争った宿敵が、皆があの顔に騙されているとき、皮の向こうで、骨を見分けた。
喉に何かが詰まり、酸っぱく、脹れる。
「あなた……」
口を開き、声がひどく嗄れる。
「いつ、分かったの。」
「最初の目。」
氷室硯は言う。
「個室で、拳を握ったときだ。」
窓の外は夜が深い。彼は屈んだまま、彼女を自分の影で全部覆い、風を通さない壁みたいに、危険を全部外へ遮る。
「急ぐな。」
言う。
「今度は、焦らなくていい。」




