第15話 極限の放縦
夜七時、香月潤は別荘へ戻り、最初に神楽湊の転院資料を開く。
新しい療養機関は隣市の山中、松山ケアセンター。都心から遠く、警備は厳しく、家族の面会は一週間前の申請が要り、主治医のサイン同意も要る。
紹介状のサイン欄は園田健の名だ——金を受け取った以上、自分の手が届く場所へ送る。
三文字を見つめ、口角がゆっくり上がる。
湊があの門をくぐれば、この世界から消えたも同然だ。
神楽檀がいちばん手放せない人間が消えれば、執念の置き場がなくなる——執念が消えれば、誰がこの身体から引きずり出せる。
携帯がちょうど鳴る。園田健のメッセージだ。
【転院は済みました。】
【ただ状態は予想より複雑で、ずっと拒否し、薬を飲みません。】
眉を寄せ、指が速い。
【治療を強めて。】
【意識がはっきりする機会は、いらない。】
数秒後、向こうが二字。【承知。】
携帯を置き、姿見の前へ歩き、興奮でますます明るい顔を見る。
「神楽檀、会社も、弟も、お前のものは全部、一つずつ持っていく。」
「お前は、もう死んだ。」
「戻るな。」
*
夜九時、雲頂クラブ。
澄江市でいちばん上の会員制クラブ。敷居が馬鹿高い。
以前の神楽檀は、こういう場所へは来なかった——うるさい、虚しい、時間の無駄だ、と嫌った。香月潤は好きだ。好きで仕方がない。
「神楽社長、ご無沙汰しております。」
「神楽さん、お顔色がますますよろしい。」
挨拶が途切れない。どれも、ちょうどいい熱さだ。
香月潤はグラスを持って一人ひとり応え、笑顔は体裁よく、応対は余裕があり、「神楽檀」の三文字を、完璧に演じる。
衆目の的であるこの感覚を、彼女は享受する。ホールのクリスタルがどれだけ明るくても、自分に落ちる視線ほど、明るくはない。
「神楽さん。」
濃いグレーのスーツの男が歩み寄り、笑顔は温和だ。界隈では少し名のある投資家で、以前、神楽と仕事をしたことがある。
「神楽は海外買収を準備しているそうだ。動きが大きいですね。」
向かいへ座り、訊く。
「ええ、試してみます。」
香月潤はグラスを揺らし、姿勢は気怠げだ。
「さすが神楽社長。」
男が笑う。
「やることに、ますます胆力があります。」
この台詞で、気分がよくなる。
杯が三巡し、話題がだんだん緩くなる。
私設ワイナリーを話す者、海上のパーティーを話す者、声を落として某令嬢の最新の噂を話す者。
以前、こういう席には座る資格すらなかった——座れたとしても、会場でいちばん透明な一人で、捧げた酒を、まともに受けてくれる人間はいなかった。
今は違う。今は、話題の中心だ。
「神楽社長は以前、こうじゃなかった。」
誰かが半分冗談で探る。
「以前の席は、お呼びしても動きませんでしたよ。」
グラスを揺らし、雲を払うように笑う。
「以前は以前です。人は、自分に優しくすることを覚えるものでしょう。」
また誰かが寄って来て、感慨する。
「以前の神楽社長は、生き方が辛すぎました。毎日、会社か家か。若いのに、苦行僧みたいだった。」
香月潤は一度、笑う。
「それで?」
「ですから、」
男は彼女を見て、目が意味深だ。
「たまには、享受したほうがいい。金は稼ぎきれない。」
杯の中で揺れる酒を見下ろし、深く納得する。
神楽檀は馬鹿だ。あれだけ持っていて、何にも触れず、享受せず、精密に回る機械みたいに生きていた。
今はいい。機械は自分に替わった。神楽檀が自分に欠いていた分を、元も利子もつけて享受してやる。
夜十一時、香月潤はクラブを出る。
車に座り、携帯を繰る。今夜、連絡先を追加してきた人間が七八人。週末の沖へ誘う者、私設の酒会へ招く者、意味のよく分からない称賛を送る者。
【神楽社長、最近ますます女らしいですね。】
その文字を数秒見つめ、唇の端がゆっくり上がる。
連絡先から一つのアイコンを出す——短髪、眉骨が鋭い。写真の男は上半身裸で、胸と腹の筋が刀で刻んだみたいだ。全身に野性が乗っている。
桐島陽。二週間前、私設クラブで知り合ったモデルだ。自分から寄って来て連絡先をくれ、それから毎日フィットネスの私写真を送り、下心は顔に書いてある。
神楽檀なら、二度と見ず、即ブロックだ。
だが香月潤は違う。名利も欲しい。追従も欲しい。極限の放縦は、もっと欲しい。
一行、送る。
【今夜、私の別荘へ。】
三十分後、相手。【了解。】
*
別荘の呼び鈴が鳴ったとき、香月潤は風呂を上がったばかりで、黒いキャミソールの短いドレスに着替えていた。
扉を開くと、桐島陽が外に立つ。実物は写真より衝撃が強い。身は高く、肩が広く脚が長い。Tシャツの下の筋が張り、全身のフェロモンが押し寄せる。
「神楽社長。」
口調は馴れ馴れしく、挨拶を待たず足を上げて入り、もともと来るべき場所へ入るみたいだ。
香月潤は扉の脇に凭れて彼を見、無意識に唇を舐める。
玄関の暖色が落ち、桐島陽が一歩前へ出、手を上げて腰を掴む。掌は熱く、力は強く、隠さない侵略感だ。
「今夜の神楽社長は、積極的だ。」
耳元へ顔を寄せ、息が頸の横に噴く。
「いつもは高く構えて、近寄りがたいと思ってましたよ。」
香月潤は勢いに乗って彼へ凭れ、指先が胸をなぞる。
「人は、いつまでも同じじゃないでしょう。毎日張り詰めていたら、疲れる。」
桐島陽は、その様子に心を掻かれる。
界隈で知らない者はいない。以前の神楽社長は、いつも冷たい顔で人を千里拒み、どれだけの御曹司が手を折ったか。今みたいに、従順で、色を含み、春の水みたいなはずがない。
腕をいきなり収め、腰から抱き上げ、数歩で大理石のバーカウンターへ行き、人をその上へ置く。
裾が太腿を一寸、滑り上がる。細い肩紐が二本、肩にかろうじてかかり、丸い肩、精緻な鎖骨が、暖色に全部晒される。
桐島陽の目が、いきなり沈む。身を挺して両脚のあいだへ立ち、退路を全部塞ぎ、手を上げて両腕を掴み、頭上へ挙げ、冷たい台へ押しつける。
空いたほうの手が裾の中へ滑り、温かい肌に沿い、動作は放縦で馴れている。
「神楽社長、」
息が目に見えて重くなり、身を屈めて少しずつ迫る。
「今夜、あなたは俺のものだ。」
香月潤は顔を上げ、頭上の曖昧な灯を見る。全身が、この熱く求められている感覚の中で溶けていくみたいだ。
これが、自分が得るべき人生だ。
そのとき——
刺すような劇痛が、予告なく心臓から爆ぜ、瞬時に全身を席巻する。
一万の手が身体の奥から伸び、引き裂き、引っ張り、外へ引きずり出そうとするみたいだ。
【いや——!】
意識の底で、香月潤が崩壊する叫びを上げる。
この身体を必死に掴もうとし、爪が肉へ食い込みそうになる。だが力は激しすぎ、決壊した洪水みたいで、一瞬で彼女を際限のない闇へ押し流す。
世界が、目の前で回転する。




