第14話 一夜の安寧、底を走る暗流
翌日午後二時、神楽グループ本社の大会議室。
幹部は全員揃い、長い机の両側は埋まっている。空気だけが、微妙だ。このところ会社の変動が多すぎる。研究開発の削減、インセンティブの停止、持株の売却。人心が揺れている。多くの胸に、同じ疑問が乗っている——神楽社長は、変わったのではないか。
扉が開き、香月潤が入ってくる。
視線が、一斉に彼女へ落ちる。
主位に座り、すぐにはファイルを開かない。ぐるりと見渡す。研究開発の責任者、財務部長、マーケティング……頭を下げる者、隣を見る者。一人ひとりの表情を、黙って心に刻む。
「このところ、会社はかなり調整をした。」
声は平稳だ。
「長期案件を止め、部門予算を削った。分からない者もいるし、思うところがある者もいるでしょう。」
会議室が、さらに静かになる。
「だが今日、伝えたい。あの調整は、間違っていない。」
大画面へ切り替える。四半期利益、前年比、キャッシュフロー。三本の線が、揃って上へ走る。
「過去半年、会社の利益は予想を超え、現金は過去最高に達した。これは何を示すか。」
一同を見て、一拍置く。
「もっと大きなことができる、ということです。」
財務部長が頷く。
「確かに、今年の財務はここ数年でいちばん健全です。」
「だから、」
次の頁へ切り替える。
「これからは縮小を続けない。新しい成長段階に入ります。」
画面に、案件の方案が出る——欧州の老舗素材企業の買収計画。表紙の二行が、赤く刺さる。
【予想利益率:三十八パーセント。】
【実行後、時価総額はおよそ二百億の伸びを見込む。】
会議室が、一瞬で静まる。
「海外市場です?」
誰かが眉を寄せる。
「神楽社長、国境を越える買収は水深が深い。デューデリだけでも一年は——」
「だから、反対意見を聞きに来たわけではありません。」
香月潤は逃げない。
「初期投入は小さくない。だが利益の余地は見ていただいた通りで、成熟すれば国内事業の二倍以上です。」
頁を送り、語速は急がず、遅れない。
「リスクを心配する人もいるでしょう。だから段階投入にし、一歩ごとにリスクの節目と損切り線を置く。第一段階が未達なら即座に調整し、未練は残さない。」
方案は綺麗だ。当然だ——神楽檀が自分の手で組んだ案で、数字もリズムも正確に踏んである。香月潤は読み上げているだけだ。だが幹部の耳には、戦略であり、胆力であり、馴染みの神楽社長が戻ってきた、と聞こえる。
疑いはゆっくり散り、抑えきれない期待に替わる。散会のころには、もう買収チームの編成を話し合う者がいる。
香月潤は会議室に残り、すぐには立たない。
芹沢すみれがファイルを整えながら、つい一目やる。
「研究開発の責任者は、」
香月潤がふと訊く。
「今日の案件に、どういう態度だった。」
すみれが一瞬、呆ける。
「野村さんのことですか。反対はしませんでしたが、表情は慎重でした。」
「散会後、執務室へ来させろ。」
一拍置き、もう一句足す。
「財務部長もだ。今日いちばん先に支持した。以後の重点案件は、彼の意見を多めに聞け。」
「はい。」
*
社員食堂へ行く。
彼女が新しく決めた決まりだ——週に少なくとも三日、社員食堂で食べる。初めて現れたとき、食堂全体がシーンとなり、全員がトレイを持ったまま動けなかった。彼女はトレイを持って、若いインターン二人の向かいに、まっすぐ座った。
「緊張しないで。」
言う。
「話そう。正社員になった?」
二人は光栄のあまり、噛みながら答えた。彼女は真剣に聞き、立つ前にもう一句。
「寮から会社の通勤バス、遅番をもう一本足す。総務に言っておく。」
翌日、本当にバスが増えた。フロア中が囁く。神楽社長は、私たちみたいな端っこの人間まで覚えている、と。
香月潤は廊下を歩き、熱を帯びた低い噂を聞き、歩みが軽い。
人心を買うのは、こんなに簡単だったのか。いや——神楽檀はこれを、「気にかける」と呼ぶ。
*
午後四時、野村が扉を叩いて入る。
老エンジニアは明らかに警戒を帯び、机の前二歩の位置に立ち、背筋を伸ばしている。いつでも一刀、浴びせられる体勢だ。一日前、「神楽社長」は彼を訴えようとしていたのだから。
「神楽社長、お呼びでしょうか。」
香月潤は彼を見て、口を開く。
「昨日の訴訟は、取り下げる。」
野村が固まる。
「あなたの意見は、間違っていなかった。」
続ける。
「取締役会では、私の考えが浅かった。新エネルギー素材の案件、予算を戻す。来週、改めて上程する。」
この台詞が出た瞬間、自分でも他人事のようだった。
神楽檀を学んでいる。
表面ではない——歩き方でも、サインでも、叱り方でもない。皆が彼女を好きな理由を、学んでいる。
ここ数日、会社の過去五年の資料を全部繰って、やっと分かった。あの女が本当に強いのは、会社を継いだこと自体ではない。現場の研究開発の意見をしゃがんで聞き、新卒に責任を預け、案件が失敗したとき責任を自分の頭に載せ、清掃の遠藤さんの子どもの誕生日まで覚えている。
以前の香月潤は、それを滑稽だと思っていた。人心買収。安っぽい手段だ。
今、同じことを始めて、この「安っぽい手段」が、こんなに手強いと知る——神楽檀がそれをしていたとき、「買収」の二字など、頭になかったからだ。
野村はその場に立ち、張り詰めた肩が少しずつ緩み、目尻が赤くなる。
神楽の創業から今まで走り続けた老エンジニアだ。どんな風波も見てきた。予算を削られても目は赤くならず、衆目の前で却下されても目は赤くならなかった。かえって、この「考えが浅かった」の一句で、危うく持ちこたえない。
「神楽社長……」
口を開き、最後に一句だけ出す。
「研究開発センター二百名余りに代わり、ありがとうございます。」
「礼はいらない。」
香月潤はファイルを繰り、記憶の中のあの人間の口調を真似る。
「案件がうまくいけば、あなたが私に礼を言う。潰せば、私が被る。それぞれ役割を果たすだけだ。」
野村は強く頷き、出ていく歩みが、入ってきたときより軽い。
彼が去ったあと、芹沢すみれがファイルを届けに入り、つい二度、香月潤を見る。
「何を見ている。」
「神楽社長、変わりました。」
すみれが小さく笑う。
「以前もよかった。でも今は……本当の指導者みたいです。」
指先が一瞬、止まる。
「そう?」
「はい。」
すみれは真剣だ。
「私たちを、心に置いてくれる人、という感じです。」
扉が閉まり、執務室が静かになる。
香月潤は背もたれへ凭れ、さっきの二言をゆっくり噛みしめる。何年も空いていた胸のどこかが、温かくて見知らぬもので、一度、埋められた。
尊重される味。信じられる味。
神楽檀が毎日過ごしていたのは、こういう日々だったのか。
口角が、ゆっくり上がる。
欲しいのは、これだ。顔だけでも、会社だけでもない——神楽檀が人に慕われるそのやり方まで、まとめて奪う。




