第3話:0.13秒の未来
午後9時29分50秒。
アペックス・キャピタルの
ディーリングルームに
緊張感が走っていた。
モニターの数字が、
呼吸を荒くしたように
不規則に点滅し始める。
「神谷さん、あと10秒です!」
「分かってる。慌てるな」
神谷は椅子の背もたれから身を乗り出し、
Bブックの管理画面を注視した。
画面の最上部には「佐藤 蓮」の口座。
残高700万円、保有ポジションゼロ。
(来い……
指標で跳ねた瞬間に
狼狽して飛び乗ってこい。
全部呑んで丸裸にしてやる)
神谷の指がマウスのホイールを弄ぶ。
指標結果が出る直前の独特な静寂。
世界中の為替レートが
ぴたりと動きを止めた。
9時30分00秒。
米国の労働省から発表された数値は、
市場の予想を遥かに超える
ポジティブサプライズだった。
――ドカン!!
世界のインターバンク市場で、
米ドルが一気に買われた。
ドルのチャートが、まるで
ナイフで垂直に突かれたかのように
天井を突き破って跳ね上がる。
1ドル=148.00円から、一瞬で149.50円へ。
150銭(1.5円)という狂気的な大暴騰。
「跳ねたぞ! ドル高だ!」
同僚の歓声が上がる。その直後――。
ピコン!
高らかな電子音とともに、
神谷の画面に真っ赤なアラートが弾けた。
『新規注文受付:ID 8042(佐藤 蓮) /
USD/JPY Buy / 1,000 Lot(1億通貨) /
約定レート:148.02円』
「……は?」
神谷の喉から、間の抜けた声が漏れた。
1,000ロット。
アペックス社が設定していた
1取引あたりの最大上限値。
日本円にして約150億円相当の
巨大なドル買い注文。
それが、
相場が跳ね上がる直前の
「148.02円」という
あり得ない格安レートで、
完璧に成立していた。
「な、なんでだ!?
なんでこのタイミングで
上限いっぱいの買いが入る!?
止めろ!
約定を弾け!!」
神谷が
狂ったように叫び、キーボードを叩く。
しかし、画面には
『約定完了』の緑色の文字。
アペックス社が誇る
『スリッページ(注文拒否)ゼロ・
高速自動約定』のシステムが
仇となった。
佐藤のプログラムが放った超高速の注文は、
アペックス社の貧弱なサーバーが
レートを
「149.50円」に書き換えるよりも
0.13秒早く滑り込み、
サーバー自体に
強制的に「148.02円で買い」と
認めさせてしまったのだ。
「カバーだ!
今すぐインターバンクへ
カバー注文を出せ!!」
神谷の顔から血の気が失せ、
激しい冷や汗が吹き出す。
アペックス社は
佐藤の注文を呑んでいた
(自社で抱えていた)。
つまり現在、アペックス社は
「148.02円で1億通貨のドルを売っている」
状態――すなわち、
巨額の含み損を
自腹で抱えている状態だった。
「だ、ダメです神谷さん!
市場のレートはすでに
149.50円まで飛んでます!
今からカバーを買おうにも、
150銭上の高値でしか買えません!」
「なんだと……!?」
通常、顧客の注文を呑んでいても、
相場が動いた瞬間に
市場へカバーを出せば
被害は最小限で済む。
だが、今回は
相場が一瞬で遠くへ飛びすぎた。
今さら市場へカバーを買いに行けば、
その150銭分の差額は
すべてアペックス社の確定損になる。
買えば破綻、買わなくても破綻。
完全なる詰み。
神谷の視界がぐにゃりと歪んだ。
「神谷さん!
サトウが……サトウが動きました!」
画面の中で、
佐藤の口座の含み損益カウンターが、
まるでスロットマシーンの数字のように
狂った速度で跳ね上がっていた。
+10,000,000円
+50,000,000円
+100,000,000円――
「やめろ……やめてくれ……!」
神谷が
祈るようにモニターに手を伸ばした
その瞬間。
ピコン!
残酷な電子音が響き、確定損益の欄に、
二度と取り消せない数字が刻み込まれた。
『決済完了:ID 8042(佐藤 蓮) /
決済レート:149.52円 /
確定損益:+150,000,000円』
1億5千万円。
わずか数十秒の出来事だった。
だが、地獄はこれだけで終わらなかった。
「神谷さん!
サトウの口座から、
さらに追加の注文が入ってきます!
1,000ロットの連打です!!」
「な……に……!?」
一度の取引で終わりではなかった。
佐藤の自動売買プログラムは、
アペックス社のサーバーが
パニックを起こし、
処理が遅延している隙を突いて、
次々と
「過去の格安レート」で
巨大なポジションを成立させ、
即座に利確する
売買ループを叩き込み始めたのだ。
1億5千万、3億、5億、7億――。
「止まれ!
止まってくれええええ!!」
ディーリングルームに
神谷の絶叫が響き渡る中、
アペックス社の手元資金は、
文字通り溶けて消えていった。
この後、本日 11:40 に第4話を投稿します。




