第2話「静かなる測量」
「雇用統計まで、あと3時間か」
金曜日の午後6時。
アペックス・キャピタルの社内には、
どこか浮ついた熱気が漂っていた。
米国雇用統計——月に一度、
為替相場が最も荒れ狂う「祭り」の時間だ。
数字一つでドル円のレートが
1円、2円と一気に跳ね上がり、
無知な個人投資家たちが
欲望に目をくらませて自滅していく。
アペックス社にとっても、
1ヶ月で最大の書き入れ時であった。
神谷は
デスクで缶コーヒーを傾けながら、
Bブック(呑み対象)のリストを
眺めていた。
その筆頭には、
変わらず「佐藤 蓮」の名前がある。
「神谷さん、例のサトウですが……
あれから妙な動きはありませんね」
後輩ディーラーが画面を指差す。
「ああ。
相変わらず変なタイミングで
小刻みに売買を繰り返してるな。
たまに奇跡的に
数万円勝つこともあるが、
トータルじゃ完全にジリ貧だ」
佐藤の取引パターンは
相変わらず支離滅裂に見えた。
突然脈絡もなく
10ロットの買いを入れたかと思えば、
数秒後に数百円の損切りをする。
あるいは、
市場が静まり返る昼休みに
意味もなくポジションを出し入れする。
神谷たちの目には、ただの
「手法が定まらない哀れな迷子」
にしか映っていなかった。
だが、
もし神谷がプログラミングと
ネットワーク工学の
深い知識を持っていたなら、
佐藤のその
「支離滅裂な取引」に隠された
真の意図に気づけたかもしれない。
――都内にある静かなマンションの一室。
暗がりの中で、
複数台のモニターが淡い光を放っていた。
画面に映し出されているのは、
チャートではなく、
ミリ秒単位で刻まれる
通信ログと確率統計の
データシートだった。
「……よし。
アペックス社のサーバーの癖は
完全に把握した」
静かな声で呟いたのは、
佐藤 蓮本人だった。
彼が画面上で見ていたのは、
自らの損益などではない。
アペックス社の
ディーリング・サーバーが
「顧客の注文を受け取ってから、
社内データベースに
記録するまでにかかる応答時間」の
厳密な測定データだった。
佐藤の支離滅裂に見える注文は、
すべて
「アペックス社がどの時間帯に、
どれだけの注文量なら
アラートを鳴らさずに
自動処理(呑み)するか」を
探るためのストレステストだった
のである。
「200万の授業料で、
完璧なバックドアを開けてくれたな」
佐藤の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
アペックス社は、
佐藤を完全な「カモ(Bブック)」と
認定したことで、
彼の口座に対する
リスク監視フィルターを
大幅に緩めていた。
さらに、
顧客集めのために掲げていた
『業界最速の約定力・
スリッページ(注文拒否)ゼロ保証』
という強気な看板が、
自らの首を絞める罠になろうとしていた。
通常、
市場が急変動した際、
業者は
不利益を被らないよう
注文を失効させる。
しかしアペックス社は、
看板倒れと言われないために
「自動約定システム」を稼働させており、
顧客の買い注文が入れば
どんな相場環境であっても
暴騰前の提示レートで
強制的に成立させる仕様になっていた。
「呑み行為で客の金を奪い、
スリッページ拒否を謳って客を釣る。
……構造上の欠陥だ」
佐藤は
自作の
超高速自動売買プログラム(EA)を
起動した。
そのプログラムは、
世界最高速とされる
ロンドンのデータセンターに置かれた
カバー先の生のレート情報と
直結している。
アペックス社の
貧弱なサーバーが
指標結果を反映して
レートを書き換えるのにかかる時間は、
約0.15秒。
対して、
佐藤のプログラムが変化を検知し、
アペックス社のサーバーへ
注文を叩き込むのにかかる時間は、
わずか0.02秒。
「0.13秒の未来」が、
佐藤の手の中にあった。
「佐藤さん、
雇用統計の準備、完了しました」
インカム越しに、
佐藤の相棒である
女性エンジニアの声が響く。
彼女の手元には、
すでに
金融庁および
証券取引等監視委員会への
通報フォームがセットされていた。
そこには、
アペックス社が
過去に違法な取引無効化を行った際の
ログや、
今回の取引の全証拠が
自動でアップロードされる仕掛けが
完了している。
「ありがとう。……
さて、
悪徳業者の授業料を回収しに行こうか」
時計の針が、午後9時29分を指した。
運命の雇用統計発表まで、あと1分。
アペックス社のディーリングルームでは、
神谷が
「今夜の酒代くらいは稼がせてもらうぞ」
と呑気に笑っていた。
この後、本日 10:40 に第3話を投稿します。




