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第1話「カモの撒(ま)き餌(え)」

「おいおい神谷、

 またこの『サトウ』って口座から

 入金だぞ。今度は500万だ」


月曜日の午前9時前。


都内の一角にある雑居ビル。


新興FX業者

『アペックス・キャピタル』の

ディーリングルームで、

同僚の男が

画面を指差しながら

下品な笑い声を上げた。


デスクで

冷めたコーヒーをすすっていた

ディーラーの神谷は、

肘をついたまま

自分のモニターへ目をやった。


管理画面に表示された顧客ID『8042』。


名前は「佐藤(さとう) 蓮(れん)」。


口座が開設されたのは一ヶ月前だ。


取引履歴をスクロールすると、

思わず鼻で笑ってしまうような

「下手くそ」な数字が並んでいる。


指標発表のたびに

高レバレッジで飛び乗り、

為替がわずかに逆へ振れただけで

狼狽(ろうばい)して損切りする。


典型的な「相場のカモ」だった。


「これで累計損率はいくらだ?」


「200万以上溶かしてるな。

 それで懲りずに、

 また追い金(おいがね)して500万

 突っ込んできたってわけだ。

 ありがたいねぇ、

 こういう頭の悪い金持ちは」


神谷は嘲笑を浮かべると、

慣れた手つきでマウスを操作した。


佐藤の口座設定を開き、

リスク管理ステータスを

『Aブック(カバー対象)』から

『Bブック(呑み対象)』へと切り替える。


「よし、

 完全内部処理(呑み)に設定した。

 こいつの注文は金輪際、

 市場(インターバンク)へ流さなくていい」


――FX取引の裏側。


顧客が買い注文を出した際、

正規の業者であれば、

裏で本物の市場へ

同じ買い注文を出して

リスクを相殺(カバー取引)する。


これが『Aブック』だ。


しかし、

アペックスのような

資金力の乏しい中小業者は、

初心者の9割が

1年以内に勝手に自己破産していく

ことを知っている。


だからこそ、

顧客の注文を市場へ流さず、

自社の中で握り潰す。


これを『Bブック(呑み行為)』と呼ぶ。


顧客が損をすれば、

その損失額はそのまま丸々、

アペックス社の利益になる。


逆に言えば、

「顧客を負けさせれば負けさせるほど、

 ディーラーである神谷たちの懐に

 インセンティブ(報酬)が入る」

 という歪んだシステムだった。


「佐藤のやつ、

 またドル円で

 無謀な買いポジション持ってますよ。

 相場は完全に下落トレンドなのに」


「放っておけ。

 どうせ

 今日のニューヨーク市場が開く頃には

 破綻して資金が消える。

 消えた500万は

 そのままうちの今月の利益だ」


神谷は背もたれに深く体を預け、

煙草に火をつけた。


自分たちは絶対に勝つ側だ。


画面の向こうで

汗を流して働いた金を溶かしていく

素人どもを、

上から見下ろして笑う側なのだと、

何の疑いもなく信じ切っていた。


神谷は知る由もなかった。


この時、

画面の向こうにいる「佐藤」が、

冷徹な目で

アペックス社のサーバー応答速度(レイテンシー)と、

自分の注文が

完璧に

「呑まれた」ことを示すログデータを、

ミリ秒単位で記録していたことなど。


佐藤がこれまでに溶かしてみせた200万円。


それはすべて、

アペックス社の警戒心を完全に解き、

自らの口座を

「Bブック(呑み対象)」へと

分類させるために放たれた、

ただの撒(ま)き餌(え)に過ぎなかった。


神谷の煙草の煙が揺れる中、

モニターの隅で

「佐藤 蓮」の口座残高が、

静かに700万円へと更新された。


本当の罠が弾ける

「米国雇用統計」の日まで、あとわずか。

この後、本日 9:40 に第2話を投稿します。

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