王国の絶望と、平和すぎるお買い物
「――以上が、『混沌の深淵』にて起きた惨劇の報告にございます……」
聖王国の王宮、重厚な絨毯が敷き詰められた謁見の間。
全身の鎧を砕かれ、血と泥に塗れた騎士団長ゼノスは、満身創痍の体で玉座の前に膝を突いていた。
「馬鹿な……! 我が国の誇る白銀騎士団5,000が、たった数分で壊滅しただと!?」
「しかも相手は……たった一体の巨大な魔物と、目に見えぬ悪夢のような罠だけだと申すか!?」
玉座に鎮座する国王をはじめ、居並ぶ貴族や大臣たちが青ざめた顔で騒ぎ立てる。
かつて世界を震撼させた魔王の時代すら凌駕する、圧倒的な絶望。
「はい……。奴らの言動から察するに、あのダンジョンの主――『クロノ』と名乗る存在は、我ら人間など虫ケラ程度にしか思っておらんようです。奴は『存分にもてなしてやれ』と配下に命じ……我々をなぶり殺しにしました……!」
ゼノスはガタガタと体を震わせる。
彼の脳裏には、あのダンジョンで見た異形たちの冷徹な眼光と、物理法則すら無視した殺戮の光景が焼き付いて離れなかった。
「なんということだ……! そのような邪悪な魔王が存在していたとは……! すぐに聖教会へ連絡し、勇者様を――」
国王が金切り声を上げた、その時であった。
「たのもー……って、誰もいないのかな?」
静まり返った王宮の回廊に、場違いなほど軽やかな青年の声が響いた。
「な、何者だッ!?」
近衛兵たちが一斉に槍を構え、音のした方角を睨みつける。
大理石の廊下を歩いてきたのは、ごく普通の旅装に身を包んだ黒髪の青年――クロノだった。
そしてその背後には、可憐な笑みを浮かべた銀髪のメイド(セレス)と、あまりの威圧感に周囲の空間を物理的に歪めている巨漢の戦士が従っている。
「ひ……ひぃぃぃっ!?」
ゼノスは悲鳴を上げて床にひれ伏した。
「クロノ……! なぜ奴がここに……!? まさか、我々を追って王都を滅ぼしに来たというのか!?」
「な、なんだと!? あいつが件のダンジョンマスターだと!?」
謁見の間が一瞬にしてパニックに包まれる。
大臣たちは腰を抜かして這い回り、騎士たちは恐怖でガタガタと震え、まともに槍を構えることすらできない。
だが、当のクロノは至って呑気であった。
(うーん、やっぱり王国の人は歓迎してくれてるんだな! 全員で出迎えてくれるなんて、ちょっと恥ずかしいぞ)
クロノの頭の中では、『自分はただの観光客』という認識しかなかった。
先日やってきた騎士団が親切にダンジョンを訪問してくれたので、そのお返しに王都へ観光にやってきただけなのだ。
「あ、急に押しかけちゃってごめんなさい。僕はクロノと言います。今日は王都の『美味しいもの』を食べに来ただけで、怪しいものじゃないですよ!」
クロノは爽やかな笑顔でそう告げた。
――しかし。
その言葉は、絶望に脅える王国の人々には最悪の脅迫として翻訳されていた。
(『美味しいもの』だと……!? まさか、この王都の人間を全員食らい尽くすという宣言か!?)
(『怪しいものじゃない』……!? 嘘をつけ! その背後にいる連中から放たれる殺気だけで、我が国の熟練騎士が失神しているではないか!!)
「く……狂気だ……! この男、微笑みながら王都の屠殺を宣言している……!」
国王は血の気を引き取り、ガタガタと唇を震わせた。
もしここで刺激すれば、この王宮どころか王都全体が一瞬で焦土と化す。相手は白銀騎士団を一瞬で粉砕した怪物たちなのだ。
「お……お望みのものは何でも差し上げよう……! 金か!? 領地か!? 食料か!? だから頼む、この王都だけは容赦してくれ……!」
国王は惨めにも玉座から転がり落ち、クロノに向かって土下座をした。
「えっ? 金や領地……? いやいや、そんなの大層なものは要らないですよ!」
クロノは慌てて手を振った。
「ただ、城下町で売ってたあの……『名物の肉串』を買いたいなと思っただけなんです。でも、屋台の店主さんが僕たちの姿を見た瞬間、失神しちゃって……。お金をどこに払えばいいか分からなくて、城の人に聞こうと思ったんです」
「……は?」
国王も、ゼノスも、居合わせた全員が耳を疑った。
(屋台の肉串……!? たったそれだけのために、王宮の最深部まで乗り込んできただと……!?)
「クロノ様、そのような卑しい人間の食べ物など、わざわざ買い求めるまでもございません。この国王の首を刎ねれば、国の財産も屋台もすべてクロノ様のものとなりますが?」
セレスがニコリと微笑みながら、物騒すぎる提案をする。
「ダメだよセレス! ちゃんと買い物をするときはお金を払わなきゃ! 犯罪になっちゃうでしょ!」
「は……っ! なんという高潔なお心構え……! 奪うことすら容易な我らに、あえて『買い物のルールを守る』という試練をお課せになるとは……!」
セレスは感動のあまり瞳を潤ませ、グラディウスも深く頷いている。
「うむ……さすがはクロノ様だ。力で踏みにじるのは容易いが、あえて人間の法に従うことで奴らに圧倒的な器の差を見せつけるのだな!」
(いや、ただの道徳観念なんだけど……)
配下たちの謎の感銘をよそに、クロノはポケットから小さな銅貨を一枚取り出し、床に置いた。
「じゃあ、肉串代としてここに100セルを置いておきますね。あ、おつりは要りませんから!」
そう言うと、クロノは満足そうに微笑んだ。
「目的も達したし、行きましょうかセレス、グラディウス」
「御意にございます、クロノ様」
クロノたちがくるりと背を向け、悠々と王宮を去っていく。
静まり返った謁見の間には、ポツンと残された一枚の銅貨だけが光っていた。
「……助かっ……た……?」
国王は生きた心地がせず、床に崩れ落ちた。
「あの怪物は……ただ『肉串』を買うためだけに、我々の防衛線を突破し、王宮を包囲し、圧倒的な力の差を見せつけて去っていったというのか……!?」
「ええ……。なんと恐ろしい奴でしょう。己の力を誇示し、我々を『生殺与奪の権を握られたペット』として嘲笑っているのです……!」
ゼノスは拳を握りしめ、冷や汗を流した。
クロノの本意など知る由もない王国の人々は、彼の「圧倒的な気まぐれ」と「常軌を逸した規格外さ」に、より一層の絶望と恐怖を深めていくのであった。




