レベル1のマスターと、過保護すぎる異形たち
「――よし、これで今日の『ダンジョン管理』は終わりだな」
『混沌の深淵』と大層な名で呼ばれるダンジョンの最深部。
豪奢な黒檀のデスクに座る青年――クロノは、目の前に浮かぶ半透明のウィンドウをパチンと閉じた。
クロノはこのダンジョンの『ダンジョンマスター』だ。
だが、彼自身には特別な武力もなければ、絶大な魔力もない。ステータスを開けば、レベルは『1』。HPもMPも、そこらの村人以下という有様である。
「クロノ様、お茶が入りましたよ。本日は魔界の最深部でしか採れぬ『龍血樹の葉』を蒸した極上の紅茶でございます」
静かに歩み寄ってきたのは、完璧なメイド服に身を包んだ銀髪の美女――セレスだ。
彼女は一見すると可憐な人間に見えるが、その背後には空間を歪めるほどの凄まじい魔力が渦巻いている。彼女の本性は、かつてひとつの大陸を一夜にして滅ぼしたとされる伝説の『終焉の魔女』である。
「ありがとう、セレス。……うん、やっぱり君の淹れるお茶は落ち着くな」
「勿体なきお言葉……! このセレス、クロノ様にお褒めいただけるならば、神々を滅ぼしてでも新たな茶葉を奪って参ります」
「いや、そこまでする必要はないよ!?」
クロノは苦笑いしながら苦い紅茶をすする。
このダンジョンには、クロノのほかに何人かの『配下』がいる。
そしてその全員が、クロノに対して異常なまでの忠誠心と、常軌を逸した過保護さを抱いていた。
「しかしクロノ様。先ほどから『ダンジョン管理』とおっしゃっておられましたが……本日はいかなる大魔法をご発動されたのですか?」
「大魔法なんて大袈裟なものじゃないよ。ただの『掃除』と『模様替え』さ」
クロノは自分のユニークスキル『領域最適化』を指差した。
これはダンジョン内の環境を整えるためだけの、戦闘には一切役に立たない生活系スキルだ。
「第1階層の罠が少し汚れていたから磨いておいたし、迷路の配置も『攻略しやすいように』少し直しておいたんだ。せっかく冒険者さんが来てくれても、難しすぎて楽しめなかったら申し訳ないからね」
「まあ……! なんという慈悲深さ……! 愚かな人間どもに生きる機会を与えてやるなど、さすがは我が主……!」
セレスはうっとりと頬を染めて感嘆の溜息をつく。
だが、クロノとセレスの認識には決定的なズレが存在していた。
クロノが「攻略しやすいように直した」と言った第1階層。
それは、彼が『空間圧縮』の技術を無意識に応用し、『歩いても歩いても出口に辿り着かない無限回廊』へと改造された悪夢の空間であった。
さらに「磨いておいた」と言った毒矢の罠は、磨きすぎた結果として分子レベルで研ぎ澄まされ、『防具もろともあらゆる物質を物理的に切断する真空の刃』へと進化を遂げていたのである。
当然、クロノにそんな意図はない。
彼は単に「綺麗好きで、親切なダンジョンマスター」として仕事をしただけのつもりなのだ。
その時――ダンジョン全体に響き渡る重低音とともに、警報アラームが鳴り響いた。
『侵入者を検知しました。規模:王国最精鋭騎士団(約5,000名)。第1階層へ侵入』
「おや、お客さんだ」
クロノは呑気に目を丸くした。
「5,000人も来てくれたのか! これはちゃんと『おもてなし』をしないとね」
「ふふ……愚者どもが群れをなしてやってきたようですね」
セレスの瞳から光が消え、冷酷な冷気が室内の温度を極限まで下げていく。
「クロノ様の手を煩わせるまでもなく、私が今すぐ王国の臣民ごと血の海に沈めて参りましょうか?」
「ダメだよセレス。せっかく遊びに来てくれたんだから、ちゃんともてなさなきゃ。……あ、そうだ。第2軍団長のグラディウスにも『優しく迎えてあげて』って伝えてくれる?」
「……御意にございます。『絶対に生かして返すな』というクロノ様のご厳命、しかとグラディウスにお伝えいたしましょう」
「えっ、いや『優しく』って言ったんだけど……」
クロノの言葉がセレスの耳に届く前に、彼女の姿は漆黒のモヤとなって消え去っていた。
一方、ダンジョン第1階層――
「ひ、ひぃぃぃっ! 出口がない! どこまで進んでも同じ通路だ!」
「た、助けてくれ! 騎士団長殿っ! 仲間が……仲間が『何もない空間』で胴体から真っ二つに切断されましたっ!」
そこは地獄絵図であった。
聖王国が誇る最精鋭『白銀騎士団』5,000名。
彼らは「最底辺のダンジョンを制圧し、領域を広げる」という安易な目的で踏み込んだはずだった。
しかし、足を踏み入れた瞬間に脱出不能の無限回廊へと囚われ、目に見えない真空の罠によって、瞬く間に半数が肉片へと変えられていたのだ。
「沈黙せよ! 動揺するな!」
騎士団長・ゼノスは、返り血を浴びながら叫んだ。
彼は王国最強の剣士であり、数々の死線を潜り抜けてきた大英雄だ。
(馬鹿な……! 最底辺のFランクダンジョンだと聞いていたぞ! なんだこの常識外れの凶悪な空間は……! 罠の威力が神級魔法のそれではないか!)
ゼノスは汗を吹き出しながら、必死に剣を構える。
その時、通路の奥から地鳴りのような足音が響いてきた。
ズシン……! ズシン……!
現れたのは、身の丈5メートルを超える巨躯を持った『鋼鉄の獅子』。
混沌迷宮・第2軍団長、『武神』グラディウスだ。
その体躯からは、放たれるだけで周囲の岩石が粉々になるほどの圧殺的な闘気が溢れ出ている。
「ハハハハハッ! 歓迎するぞ、愚者どもッ!」
グラディウスの怒号が響き渡り、衝撃波だけで100人の騎士が壁に激突して砕け散った。
「我らが偉大なる主、クロノ様より通達があった! 『存分にもてなしてやれ』となぁッ!」
「くっ……! 化け物め! 構えろッ! 突撃――」
ゼノスが号令をかけようとした瞬間、グラディウスの一撃――ただの拳の振り下ろしが放たれた。
ドドォォォォンッ!!
衝撃でダンジョンの第1階層そのものが激しく揺れ動く。
直撃を受けた騎士団の前半数が、跡形もなく消滅した。
「な……に……!?」
ゼノスは膝を突き、絶望に目を剥いた。
自分たちが命がけで鍛え上げてきた剣技も、魔法も、神への信仰も――この異形の怪物の前では、赤子の戯れにすら等しい。
「ハハハッ! 退屈! 退屈千万ッ! これが『人間の精鋭』か! クロノ様がわざわざ我らの手を煩わせまいと『優しく』殺せとお命じになった意味がよく分かったわ!」
グラディウスは吐き捨てるように笑う。
「おい、生き残り! 貴様らの王に伝えろ。『混沌の深淵』に牙を剥く者は、神であろうと滅ぼすとな!」
ダンジョン最深部・玉座の間
「うーん……静かになったな」
クロノはモニターを見つめながら、首をかしげていた。
画面には、なぜか土下座の姿勢でガタガタと震えながら、一目散にダンジョンから逃げ出していく騎士団長の姿が映っていた。
「みんな、もう帰っちゃったのかな? せっかく手作りのクッキーも用意したのに……」
「クロノ様、彼らはクロノ様の圧倒的な威光に恐れをなし、命からがら逃げ帰ったのです。クッキーなど、愚かな人間ドモには不相応にございます」
セレスが微笑みながら、優しくクロノの肩を叩く。
「そうかなあ。まあ、怪我人が出なかったなら(※全滅寸前だったが)良かったよ。……さて、それじゃあ次は外の世界の様子でも見に行ってみようか」
「……! 外の世界……でございますか?」
セレスの目が怪しく光った。
「うん。ずっとダンジョンの中に引きこもっているのも退屈だしね。たまには街に行って、美味しいものでも食べたいな」
「かしこまりました。ただちに『王都侵攻』……いえ、『王都散策』の準備を整えます」
クロノは「ただの観光」のつもりで言ったのだが――
このクロノの軽い一言によって、人間の世界はかつてない未曾有の大混乱へと巻き込まれていくことになるのであった。




